サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回は、1990年代の「世界サッカーの首都の顔」について。
■国内屈指のスタジアム誕生
「ミランFC」会長のピエロ・ピレリは、世界的なタイヤメーカー「ピレリ」の2代目社長だった。1909年から1928年まで「ミランFC」の会長を務め、「サンシーロ・スタジアム」の建設地買い上げから建設費まで含めた500万リラ(当時のレートで20万ドル)と言われる費用は、彼のポケットから出た。ちなみに、ピレリ・タイヤは1995年から2021年までインテルナツィオナーレ・ミラノのメインスポンサーになっている。
当時、イタリアのサッカースタジアムの大半は陸上競技場型だった。そのなかで、ピエロ・ピレリはイングランド型のサッカー専用スタジアムを計画した。コンクリートを主材料とし、西側に置かれた9000人収容のメインスタンドには屋根をつけ、その中には、監督の家族が暮らす4ベッドルームの豪華アパートメントまで組み込まれていた。
メインスタンド以外の3つのスタンドはすべて屋根なしの立ち見席で、東側の「バックスタンド」は収容1万人、南北のゴール裏スタンドはそれぞれ3000人を収容した。さらに南北スタンドの前には、「平場席」と呼ばれる傾斜のほとんどない立ち見席が設けられ、南北合わせて1万人を収容することができた。
総収容数は容計3万5000人。北イタリアでは最大級のスタジアムだった。独立した4つのスタンドでサッカーのピッチを囲む形は、スタジアム建設の工期を短くできるだけでなく、将来的な拡張工事を容易にするという、画期的なものでもあった。こうして、1925年8月に始められた建設工事はわずか13か月で完了し、1926年9月19日、インテルナツィオナーレとの「こけら落とし」を迎えるのである。
そして翌1927年にはイタリア対チェコスロバキアの親善試合が行われ、すぐにイタリア代表のメイン・スタジアムとなる。1934年ワールドカップでは1回戦のスイス対オランダ、準々決勝(2回戦)のスウェーデン対ドイツ、準決勝のイタリア対オーストリアの3試合が開催され、ローマのPNFスタジアム(5万人収容)に次ぐ主要スタジアムとなった。














