■地元開催へと進められた準備
地元開催のワールドカップに向け、まず取り組まれたのが監督選びだった。1986年メキシコ代表をベスト8に導き、1990年大会で「アウトサイダー」と目されていたコスタリカをラウンド16まで引き上げたボラ・ミルチノビッチ(セルビア生まれ)以外に、その適任者はいなかった。
さらにアメリカ・サッカー協会(1974年に「ユナイテッド・ステーツ・サッカー・フットボール・フェデレーション=USSFF」から「フットボール」を取り、現在も使われる「USSF」という名称となった)は、国内の代表選手たちを協会自身で契約し、所属クラブに貸し出す形をとり、選手たちが思い切ってサッカーに取り組める環境をつくり出した。
そしてまた、「NASL時代」に少年期を過ごし、サッカーを続けてきたタレントがポツポツと生まれるようになっていた。そのなかから、MFジョン・ハークスがダービー・カウンティで、そしてGKユルゲン・ソマーがルートン・タウン(ともにイングランド)で活躍するなど、欧州のトップクラスのクラブでプレーする選手も出現していた。
1994年、アメリカ代表は初戦をスイスと1-1の引き分けで終えると、第2戦ではコロンビアに2-1で勝利。実に44年ぶりのワールドカップ勝利を記録する。ちなみに、前半35分のアメリカの先制点はコロンビアのDFアンドレス・エスコバルのオウンゴールによるもの。グループ最下位で終わって帰国したエスコバルは、この試合のわずか6日後、メデジンの市内で射殺されるというショッキングな事件が起こる。
グループ最終戦はルーマニアに0-1で敗れたものの、アメリカはグループ3位となり、ラウンド16への権利を手にする。対戦相手はブラジル。FWにロマリオとベベトという天才2人を並べるブラジルにアメリカは健闘したが、後半27分にベベトに決勝点を許し、0-1で惜敗した。「開催国の体面」は十分に保ったと評価される結果だった。











