■誇り高きイングランド代表キャプテンの「選択」

 チームメートからムーアに声がかかったのは、そのときだった。ボールを観客席に大きく蹴り込めば、なかなか戻ってこない。スタンドを埋めているのがイングランドのファンなら、ボールをあちこちに投げ、なかなか返そうとはしないだろう。それが当時の試合終盤の時間かせぎの常とう手段だった。観客席に入ったら、戻ってくるまでプレーは再開されなかった。

 しかしムーアは「ミスター・フェアプレー」と呼ばれた人であり、誇り高きイングランド代表のキャプテンだった。スタンドに蹴り込むのは、彼のサッカー哲学に反する行為だった。イングランドも西ドイツも、多くの選手が立ち止まるなか、彼はペナルティーエリアの前までボールを運び、渾身の力で最前線のFWジェフ・ハーストにボールを送った。

 延長まで120分間を戦ってなお、ハーストはエネルギッシュだった。ボールを受けると、まっすぐに西ドイツ・ゴールに向かって突き進む。西ドイツのMFウォルフガング・オベラーツが絶望的な表情を浮かべながら追うが、ハーストは西ドイツ・ペナルティーエリアに入るところで左足を一振り、ボールを西ドイツ・ゴールの左上隅に叩き込んだ。ディーンスト主審は、ゴールの合図をし、続いて試合終了の笛を吹いた。

つづく

(2)へ続く
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