■3バックか4バックか「まだ迷っていた」

 その後、日本サッカーは順調に強化が進み、1995年に香港で開かれた第3回大会、1998年に開かれた第4回大会と、日本はダイナスティーカップで3連覇を飾った。

 第4回大会の開催は1998年のことだった。大激闘の末に初めて出場権を勝ち取ったフランス・ワールドカップ開幕のわずか3か月前のことだった。

 当時の日本代表に「海外組」はいない。中田英寿がイタリアのペルージャに渡るのは、フランス大会終了後のことだ。

 従って、このときのダイナスティーカップではすべての選手が招集可能であり、岡田武史監督にとっては本大会直前の準備試合となった。

 岡田監督にとって、アルゼンチンやクロアチアといった強豪相手にどのように守るかが課題の一つだった。3バックか、4バックか、岡田監督はまだ迷っていた。

 そこで、体の大きな選手が多い中国との試合は守備のテストに使い、チーム力の離れた香港選抜との試合は攻撃のテストといったように、試合ごとにテーマを絞って臨むことになった。

 横浜国際総合競技場のこけら落としとなった初戦で韓国を破った日本は、香港相手には5対1で快勝。だが、「守備のテスト」のつもりで臨んだ中国戦では、開始9分で失点してしまう。その結果、リードを奪った中国がその後は守備的に戦ったので、日本代表にとっては思ったように「守備のテスト」ができなくなってしまった。それでも、岡田監督は方針を曲げず、リードされても守備的に戦った。そのため、事情を知らないマスコミからは相当に叩かれることになった。

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