大住良之の「この世界のコーナーエリアから」第165回「延長戦はサッカー界の“特別な時間”」(3)直近8大会のワールドカップ決勝は延長戦「5回」とPK戦「3回」、ハットトリックのエムバぺが神の子メッシに敗れる「ドラマ」もの画像
リオネル・メッシに敗れたものの、ワールドカップ決勝でハットトリックを成し遂げたキリアン・エムバぺ。延長戦があったからこそ、生まれた大記録だ。撮影/原悦生(Sony α-1使用)
 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム。今回は、「帰るのが遅くなりそうだけど“特別な時間”」について。

■決勝で「計170分間」の死闘

 1921(大正10)年、日本サッカー協会誕生とともに始められた全日本選手権(現在の天皇杯)。昨年まで104回にわたる大会の決勝戦で延長戦に入ったことが20回ある。1939年の第19回大会、慶応BRBと早稲田大学の決勝戦がその最初で、1-1から延長となり、その後半に慶応BRBのエース二宮洋一が決勝ゴールを決めた。

 1954(昭和29)年の第34回大会の決勝戦では、慶応BRBが東洋工業と対戦し、20分間(10分ハーフ)の延長戦をなんと4回、計80分間も戦ったのだ。「ノーマルタイム(90分間)」分終了直前に1-1のタイとした慶応BRBは、延長戦の1回目に先手、先手と取り、そのたびに東洋が追いついて3-3。2回目、3回目の延長戦は得点が生まれず、150分間の戦いを終えて4回目の延長に入り、そこで慶応BRBが前後半に1点ずつ入れて5-3で勝利をつかんだのだ。

 さすがにこれは「非人道的」と日本協会は思ったのか、1964年の第44回大会の決勝戦、八幡製鉄×古河電工では、20分間(10分ハーフ)の延長戦を2回戦っても0-0。両者優勝という、104回の歴史で唯一の形となった。

 ちなみに、それまで5月に行われていた天皇杯は、この前年から正月を越した1月の大会となっていた。1965年1月17日、神戸の王子競技場は「小雪まじりの六甲おろし」という最悪のコンディションで、ベテランが多かった古河は、7日間で5試合目というなか、ケガ人も続出し、若い八幡の猛攻をしのぎきって130分を終えたときには立っていられる選手も少なかったという。

  1. 1
  2. 2
  3. 3