
史上最高と称されたサッカー・ライターが亡くなった。サッカージャーナリストの大住良之が、その足跡を辿る。
■17歳で「英国特派員」に
戦争が終わって1949年、ブライアンが17歳のとき、一家はひと夏をイタリアのトスカナ地方の海浜保養地で過ごし、海岸で太陽を浴び、テニスを満喫した。旅の終わりに、一家はフィレンツェとローマを訪れた。そしてそのローマで、ブライアンは生涯を決める決断をするのである。
もちろんイタリア語などまったくできなかった。だがある日、ローマで有名なスポーツ紙である「コリエーレ・デロ・スポルト」の編集部を訪ね、仕事をしたいと申し出たのである。チャーターハウス校で、彼は「スポーツ」という雑誌にサッカーの記事を寄稿していた。彼の胸には、その記事の切り抜きのスクラップブックが抱えられていた。そして交渉は成功し、17歳のブライアンは「コリエーレ・デロ・スポルト」紙の英国特派員となったのである。