■連載にはなかった主人公の「淡い恋」
1992年1月。この年の3月にアマチュアの「日本サッカーリーグ」が終了し、9月にはJリーグ最初の大会である「ナビスコ杯」がスタートすることになっていた。世の中はサッカーへの関心が熱病のように高まりつつあったが、情報はまだまだ不足していた。
「サッカーとは何か、プロリーグとは何か、そしてJリーグとともに話題になり始めている2002年ワールドカップについてなど、『サッカーの今』がわかるものにしてほしい」というのが、「スポーツ報知」の希望だった。ながいのりあきさんへのリスペクトから、私は『キッカーズ2002』というタイトルを提案した。
私が2週間分の「台本」のようなものを書き、ファクスでながいさんに送る。1週間ほどすると、ながいさんから14ページの原稿が、やはりファクスで送られてくる。直すべきところがあれば、ながいさんに連絡して直してもらう。そして完成した原稿がスポーツ報知に送られ、翌週から1ページずつ連載されるのである。同年代ということもあり、ながいさんと私は気が合った。
ながいさんは素晴らしい漫画家だった。何より「線」が美しく、登場人物も私のイメージそのもので、味も素っ気もない「台本」を驚くほど生き生きした作品に仕上げてくれた。作品の底に流れる人間に対する根っからの「優しさ」こそ、この人の漫画を少年少女たちに夢や希望、友情などを教える「有益」なものにした根源であることがよく理解できた。
「サッカー・マガジン」時代から望月三起也先生(この人は「先生」としか呼べない)の絵を見てきた私だったが、改めて、真っ白な紙にペン1本で新しい「世界」を作り出す漫画家というものに畏敬の念を抱いたのである。
主人公が小学校を卒業するとき(1993年春)から2002年ワールドカップの日本の初戦に主人公が先発出場するまでを描き、連載は1年間で終了した。終了と同時に当時Jリーグの公式刊行物を一手に発行していた小学館が「単行本化」の企画を持ち込み、私とながいさんは終盤に新聞の連載にはなかった主人公の淡い恋の話を挿入して単行本の原稿とした。