■「果たした」14年前のリベンジ

 最後に残ったのは、出場ボーナスをめぐる選手と協会の対立だった。選手と協会の対立は「オランダ病」とでも言うようなもので、これがゆえにオランダを買わない専門家も多かった。深刻な問題だったが、ミケルスは「来たくない選手は来なくてよい」と言い切り、選手たちの不満を断ち切った。

 西ドイツでは、1次リーグをウルグアイに2-0、スウェーデンに0-0、ブルガリアに4-1と首位で突破し、2次リーグではアルゼンチンに4-0、東ドイツに2-0、そしてブラジルに2-0と3戦全勝で決勝進出を決めた。とくに連覇と4回目の優勝を目指したブラジル戦は、スピードに乗った攻めで圧倒、ヨハン・ニースケンスとクライフのゴールで完勝の内容だった。

 そして世界中が「トータル・フットボール」のとりこになった。

 西ドイツとの決勝戦では、開始わずか1分のPKで先制という異常な状況の中、オランダらしい「甘さ」が出て前半のうちに逆転を許し、後半は精神的なバランスが取れないまま1-2で敗れたが、それはけっしてそれまでの6試合で見せたサッカーの価値を低めるものではなかった。

 その後ミケルスはアメリカのロサンゼルス・アズテックス、西ドイツの1FCケルンなどの監督を務め、1988年、西ドイツで開催される欧州選手権に挑むオランダ代表の監督という役割を引き受けた。そして準決勝でドイツに2-1で逆転勝ちして「14年前のリベンジ」を果たし、決勝戦ではFWマルコ・ファンバステンの見事なシュートなどでソ連に2-0で快勝、オランダに初の国際的なメジャータイトルをもたらした。

 この大会後には西ドイツのバイエル・レバークーゼンの監督に就任、1992年の欧州選手権のときに64歳でオランダ代表を率いた後、監督業から退いた。そして2005年3月3日、2回目の心臓手術のベルギーのアールストの病院で亡くなった。77歳だった。

 41ものタイトルを取ったファーガソンと比較すると、ミケルスが手にしたタイトルは両手で数えられるほどのものに過ぎない。しかし、プレッシング・スタイル、浅いDFライン、流動的なポジショニング、そしてそれを支えるボールなしの動きと豊富な運動量は、そのまま今日のサッカーの主流をなすものだ。

 ミケルスがまさに「ゼロ」から築き上げて1971年に完成し、1974年に世界に示した「トータル・フットボール」。それから半世紀を過ぎても、色あせるどころか、今も「目標」にされている。リヌス・ミケルスはまちがいなく「モダン・サッカーの父」であり、彼を「サッカー史上最高の監督」と言わない理由など、どこにもないように思うのである。

PHOTO GALLERY ■【画像】今も「目標とされる」サッカー史上最高の監督
  1. 1
  2. 2
  3. 3