■12年間「代表歴のない」選手を
1971年、ミケルスはアヤックスを欧州チャンピオンズカップ優勝に導き、FCバルセロナの監督に就任する。1973年にはチャンピオンズカップで3連覇を遂げたアヤックスからクライフがバルセロナに移籍し、ミケルスは、その監督契約のまま、1974年春、西ドイツで開催されるワールドカップのわずか2か月前にオランダ代表チームの監督に就任する。
オランダにとって40年ぶり2回目のワールドカップ出場。クライフと彼の元のチームメートであるアヤックスの選手を中心に予選を勝ち抜いたが、オランダサッカー協会内のごたごたや、「2人監督制」というゆがんだ形のチーム事情、そして選手と協会との対立など、難しい問題を抱えていた。
ミケルスは全権限を自分に集中させ、思うままのチームをつくった。予選のヒーローのひとりだったGKのヤン・ファンベベレン(PSVアイントホーフェン)が負傷で欠場が決まると、チームのスタイルである「トータル・フットボール」に最も適した選手として、誰も注目していなかったヤン・ヨングブルートを正GKに据えた。
34歳という年齢もさることながら、1962年にオランダ代表にデビューしながらその後12年間も代表歴がなかったこと、FCアムステルダムという小クラブの選手であることなど、ヨングブルートの抜てきは驚きの目で見られたが、ペナルティーエリアを大きく出てプレーするスタイルは、「トータル・フットボール」の理想的なGKだった。
予選で活躍した2人のセンターバックの負傷欠場も、大きな課題だった。ミケルスは、フェイエノールトで右サイドバックとしてプレーしていたビム・レイスベルヘンと、アヤックスでは中盤の中心選手だったアーリー・ハーンを守備の中央に並べた。すべては、「トータル・フットボール」のスタイルからの選択だった。