■東西に分断された「サポーター」
社会主義統一党の独裁体制下に置かれ、経済的に停滞した東ドイツの国民は、西側への脱出を図ります。国境は厳重に警備されていましたが、ベルリンは1つの都市だったので、ベルリン経由で多くの人が流出しました。それを防ぐために、1961年8月12日から13日にかけて、東ドイツ政府は東西ベルリンの境界で道路や線路を封鎖。最初は鉄条網の柵のようなもので仕切られていましたが、すぐにコンクリート製の壁が建設されました。
ちなみに、ベルリン都心部にあったヘルタ・ベルリンのスタジアム(ヘルタプラッツ)は「壁」のすぐ西側にあり、東側に住んでいたサポーターは壁ができたため、観戦に来られなくなってしまいました。そこで、試合のたびに、彼らは壁のそばに集まってスタジアムからの歓声に耳を傾けていたと言われています(壁ができたため、スタジアム周辺は寂れてしまい、後にヘルタは西ベルリン西部のオリンピアシュタディオンに移転します)。