■チームの運命を変えた「ボール泥棒」の攻撃

「コパ」は通称である。正確な名字は「コパシェフスキー」。ポーランドからの移民の3世だった。彼の祖父は1919年に炭坑労働者としてフランスに移り、レイモンの父フランソワも炭坑労働者として生きた。母もポーランド移民の子で、家で使われるのはポーランド語だけ。1931年生まれのレイモンは学校の勉強にまったくついて行けず、サッカーに熱中した。

 第二次世界大戦中、コパシェフスキー家がいたベルギー国境に近い地域はナチスの直接占領下にあり、サッカーのピッチもドイツ軍専用にされていた。レイモンは仲間と語り合ってドイツ人がプレーするピッチ周囲に忍び込み、転がってきたボールを盗むことに熱中した。そして、それを持ち帰って近所の空き地でサッカーに興じた。「あれが僕たちの『レジスタンス(抵抗運動)』だったのさ」と、レイモン・コパは後によく語った。

 コパを得たことで、スタッド・ドゥ・ランスの運命は大きく変わった。1951/52シーズン、バトーは当初、自分が現役復帰して攻撃をリードしようと考えていたのだが、20歳を前にしたコパに攻撃を託すことにした。そして黄金時代が始まる。コパがきた2シーズン目の1952/53シーズンにリーグアンで2回目の優勝。それから1961/62シーズンまで、10年間で5回の優勝を飾るのである。

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