サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回は、U-23アジアカップで日本と優勝を争った、成長著しいサッカー新興国と日本の知られざる「因縁」――。
■カザフスタン戦「引き分けの夜」に…
1997年の予選、カザフスタン戦は10月4日、ウズベキスタン戦は1週間後の11日だった。たっぷりと時間がある。私は、タシケントでは、できる限り「日本人抑留者の跡」を探そうと中央アジアに向かった。
だがカザフスタン戦を1-1で引き分けた夜に日本代表の加茂周監督の更迭が決まり、ウズベキスタン戦は岡田武史コーチが指揮をとることになった。そのため試合までの1週間は忙殺された。だが幸運なことに、私の帰国便はウズベキスタン戦の翌々朝だった。「奇跡」と言っていいゴールでウズベキスタンと1-1で引き分けた翌朝、私はガイドを頼んで「日本人抑留者の足跡」を探した。
最初の目的地は簡単だった。ナヴォイ劇場。1947年に完成した国立のオペラ劇場で、抑留された日本人が建設に関わったことで知られている。タシケントは1966年に直下型地震に襲われ、7万8000棟もの建物が倒壊したが、ナヴォイ劇場に大きな被害はなく、日本人の仕事の優秀さを証明したと伝えられていた。
劇場の横手には、ウズベク語、日本語、ロシア語で書かれた立派なプレートがあった。
「1945年から1946年にかけて極東から強制移送されてきた数百名の日本国民が、このアシェル・ナヴォイー名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」
訪れたのが日曜の午前中だったため閉館時間中で内部を見ることはできなかったが、建設から半世紀を経てもこの劇場がタシケント市民の大きな誇りになっていることはよくわかった。
だが「日本人墓地」探しには苦労した。ガイドが最初に連れていってくれたところはまったくの見当違いだった。さんざん聞き回って、ようやく市の南、ヤッカサライ地区、ヤッカサライ通りの市民共同墓地にたどり着いた。入口をはいったところで水道から水を汲んでいた若者に聞くと、無言で水道を止め、先に立って案内してくれた。