■「第2回大会は日本で」寝耳に水の外電

 第1回「コカコーラ杯ワールドユース大会(大会の正式名称は、1979年の第2回大会までWorld Youth Tournamentだった。第2回大会の成功を受けて、1981年の第3回大会からWorld Youth Championship」(ワールドユース選手権、となった)は、1977年6月から7月にかけて北アフリカのチュニジアを舞台に行われ、決勝戦は2-2からPK戦9-8でソ連(現在のロシア)がメキシコを下して優勝を飾った。しかし、観客も少なく、世界的な注目度は低く、大会の運営もお粗末で、「成功」にはほど遠い内容だった。

 2年に一度の大会である。第2回のホスト国は、この大会の1年前から募集が始まっていた。FIFAは1976年6月の「サーキュラー(回状)」で立候補国を求めた。日本サッカー協会はその2年前に法人化して財団法人になったばかりで、まだ大きな借金を抱えていた。それでも、半ば義理のような形で「大会の内容を知りたい」との返信を出した。

 1977年5月、外電が「第2回ワールドユース大会開催の有力候補に」と伝えたとき、日本協会はまさに「寝耳に水」だった。FIFAが正式に日本協会に開催意思確認の連絡をしてきたのは、翌月だった。これに対し、日本協会は「意思はあるが、研究させてほしい」と回答。さっそくチュニジアに技術担当の藤田一郎を派遣した。

 他にも、オーストラリア、イラン、オランダ、ウルグアイ、アメリカが開催意思を表明していたが、この段階で、FIFAは「第2回大会は日本で」と決めていたらしい。チュニジアでは、大会運営のずさんさとともに、コカコーラとチュニジア政府の関係も良くなく、スポンサーから大きな不満が出ていた。日本は、アメリカ、西ドイツと並ぶコカコーラの「3大マーケット」のひとつであり、好調な経済、東京オリンピック(1964年)で実証された大会運営能力の高さなど、「2大会連続の失敗は絶対に許されない」FIFAとしては、日本に懸けるしかなかった。

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