■「W杯に出場した選手は五輪に出場できない」

 AFC設立は1954年。1916年に設立された南米サッカー連盟(CONMEBOL)に次ぐ、FIFA内部で2番目の地域連盟だった。しかし、その後もAFCはワールドカップ予選には関与することができず、アジア単独での出場権は与えられずに、予選はFIFA主導、FIFAの考えによって進められた。

「ワールドカップに出場した選手はオリンピックに出場できない」というルールができたため、オリンピックを優先させた日本は1958年スウェーデン大会にはエントリーせず、1962年チリ大会予選にはエントリーしたものの、韓国に連敗して敗退。このときにはアジア予選の勝者とユーゴスラビアが対戦して出場国を決めることになっており、韓国に5-1、3-1で連勝したユーゴスラビアが楽々と出場を決めた。

 大きな問題が起きたのは1966年イングランド大会だった。「アフリカの年」と呼ばれた1960年に18の新しい国が誕生。1962年大会のエントリーが6か国に過ぎなかったアフリカから、4年後のこの大会には、17もの国がエントリーしたのだ。アジアのエントリーはわずか3か国だったが、FIFAがアジアとアフリカ、そしてオセアニアを合わせて「1枠」としたことにアフリカ諸国から大きな反発が起こり、アフリカの大半のチームが予選出場をボイコット。南アフリカはアパルトヘイト(人種隔離)政策のためにFIFAの会員資格を停止され、アジアの棄権も続き、結局、北朝鮮とオーストラリアだけが残った。

 FIFAはこの「最終予選」2試合を1965年4月に東京で行うことを決めたが、日本側との日程調整が整わず、結局カンボジアのプノンペンで行うことになり、北朝鮮が6-1、3―1で連勝して初出場を決めた。1966年イングランド大会での北朝鮮の活躍はよく知られている。

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