■すべてが監視下「電話は盗聴、郵便物も検閲」

 2022年2月にロシアがウクライナへの侵攻を開始してから、世界は再び「東西分裂」の具体的な危機に立たされているが、その前の30年間は、近代の世界の歴史では希有な「平和」の期間だった。「ソビエト連邦」の支配下に築かれていた強固な「東欧共産圏」のタガがゆるみ、一挙に東欧各国で「革命」が起こったのが1989年。11月9日に「ベルリンの壁」が打ち壊されるという象徴的な出来事があり、ルーマニアでも1965年から続いていたニコラエ・チャウシェスクの独裁体制が12月17日に打倒されて民主的な国家の建設が始まった。

 だが、私が訪れた1986年9月、チャウチェスクの独裁体制は堅固で、人々は、その抑圧下にあった。日常生活のすべてが監視下におかれ、電話は盗聴され、郵便物も当然、検閲されていた。そして、それ以上に深刻だったのが、エネルギーや食料の危機だった。市内に商店はあっても商品はなく、たまに店頭にパンが出ると長い行列ができ、あっという間に売り切れた。

 共産圏の都市の例にもれず、ブカレストでも暖房や給湯は「地域供給」されていた。地域ごとに巨大なボイラーを動かし、街中に給油管を張り巡らせてお湯を配給していたのだ。だが、極端な外貨不足で燃料が不足し、給湯は週に1回、数時間ほど。ブカレストに駐在していた日本人の商社マンによると、「お湯が出た」という電話が家庭から学校にくると、子どもは学業を放り出して帰宅し、父親も仕事などしている場合ではないと帰宅して、1週間ぶりの風呂に入るのだという。

 通常でも氷点下5度、ひどいときには氷点下20度、30度ということもあるブカレストの冬。暖房がないため、人びとは室内でも厚いオーバーコートを着て過ごし、夜ベッドに入る前に何よりも気をつけなければならなかったのは、牛乳を冷蔵庫に入れておくことだったという。冷蔵庫の中は4度程度に保たれている。しかし、そこに入れ忘れると、凍って分離し、飲めないものになってしまうというのだ。

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