偶然の出会いを実りに変えた両国間の親和性【ドイツと日本をつないできたサッカーという絆】(3)の画像
日本とドイツの間には長いつながりがある(写真はイメージです) 撮影:中地拓也

 サッカー日本代表は今月、ドイツへと遠征する。現地で対戦する予定のドイツ代表とは、昨年のワールドカップでも顔を合わせた。最近はドイツでプレーする日本人選手も多い。その両国の絆をサッカージャーナリスト・後藤健生がつづる。

■西ドイツでの研鑽

 クラマーの指導を受けたことで、日本は西ドイツとの関係を深めた。日本代表は毎年のように西ドイツに遠征したし、西ドイツの強豪クラブも次々と来日した。

 1963年にブンデスリーガが結成された西ドイツは1970年代前半に黄金時代を迎えており、西ドイツ代表は1972年のヨーロッパ選手権と1974年の西ドイツ・ワールドカップに相次いで優勝を飾った。

 そして、当時の西ドイツを代表するボルシア・メンヒェングラッドバッハや1FCケルン、バイエルン・ミュンヘンといった強豪クラブが相次いで来日し、日本のファンはギュンター・ネッツァーやヴォルフガング・オフェラート、フランツ・ベッケンバウアーといったワールドクラスの選手を生で見ることができたのだ。

 クラマーの提言によって1965年に発足した日本サッカーリーグ(JSL)の三菱重工で監督に就任した二宮寛は、西ドイツに単身渡って、1FCケルンの監督だったヘネス・バイスバイラーに師事して三菱をJSLで優勝に導いた。

 その二宮が、1976年に日本代表監督に就任した。そして、1977年に日本代表が西ドイツ遠征に赴いた時、二宮は代表選手たちを数人ずつ、ブンデスリーガの強豪クラブのキャンプに参加させたのだ。

 そして、1FCケルンのキャンプに参加した奥寺康彦がケルンの監督として俊足ウィンガーを探していたバイスバイラーに見出され、奥寺はケルンと契約。日本初のプロサッカー選手となった。

 スピード溢れるFWとして西ドイツに渡った奥寺は、後にブレーメンのオットー・レーハーゲル監督によってサイドバックまたはウィングバックにコンバートされ、「東洋のコンピューター」と呼ばれ、9シーズンに渡ってブンデスリーガで活躍することになった。

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