■アツかった1975年
この当時の日本代表にとって、アジアカップ出場は何のテーマでもなかった。日本のサッカーが渇するように望んでいたのは、1976年モントリオール・オリンピックの出場権獲得だった。あのメキシコ・オリンピックの栄光から8年がたとうとしていた。「サッカーブーム」は過去のものとなり、日本サッカーリーグの試合にも閑古鳥が鳴いていた。もういちどオリンピックに出場し、世界を相手に戦うことに、日本のサッカーのすべてがかかっていた。香港でのアジアカップ予選は、そのための強化の一環にすぎなかった。
『サッカー・マガジン』での私のレポートにも、この1975年の秋に予定されていたモントリオール・オリンピック予選に向けてチーム強化が進んでいるかという点に重きが置かれている。5ページにわたるレポートの総タイトルは、「全日本、秋(五輪予選)への自信をつかむ!」だった(原稿の内容とはあまり関係がなかった。誰がつけたのだろう?)。
1975年夏、欧州ではデットマール・クラマー監督率いるバイエルン・ミュンヘンが欧州チャンピオンズカップで連覇を飾り、世界ではアメリカのニューヨーク・コスモスで「3年間21億円」の年俸を約束されて現役復帰したペレが初戦でゴールを決めて大きな話題になっていた。
そして東アジアでは、中国が本格的に国際舞台に復帰というニュースはあったものの、アジアで最も重要なタイトルであるアジアカップ自体はまだまだ軽視されていた。日本は強化の1ステップとしかとらえておらず、北朝鮮との対戦を避けて予選第4組に入れられた韓国は、この大会の最初の2回を制覇して重要性は認識しているはずなのに、マレーシアとタイに敗れて決勝大会出場を逃していた。そして北朝鮮は、翌年のイランでの決勝大会を棄権した。
23歳、駆け出しのサッカージャーナリストは、初めての日本代表帯同取材を大いに楽しんだが、大会の熱さ以上に香港の猛烈な蒸し暑さが強く記憶に残る大会となった。