堂安律(フライブルク)が代表で大きな成功を収められれば理想的だが、エースナンバー10の壁は高い。というのも、10番を背負った選手は大舞台に立つと呪縛に苦しむという「負の歴史」があるからだ。
始まりは 日本がW杯初出場した98年フランスW杯に遡る。当時の10番・名波浩(現日本代表コーチ)は大会を通じて献身的なプレーでチームに貢献していたが、初戦・アルゼンチン戦で相手エースFWガブリエル・バティストゥータの決勝点に絡む不運に見舞われた。
名波はその後も10番をつけ、2000年アジアカップ(レバノン)ではMVPに輝く華々しい活躍を見せたが、2002年日韓W杯前年からはケガを繰り返し、自国開催の夢舞台に立てなかった。
その名波から10番を引き継ぐ予定だったのが中村俊輔(横浜)。横浜・渋谷に巨大な俊輔人形が新ユニフォームを着て登場するほど期待が大きかった。が、フィリップ・トルシエ監督(現ベトナム代表)の「中村をベンチに置くと雰囲気が悪くなる」という判断からまさかの落選。本番では中山雅史(沼津監督)が10番をつけることになったが、中村本人のショックは想像をはるかに超えていた。
2006年ドイツW杯はジーコに寵愛を受け、文句なしに選出され、初戦・オーストラリア戦で先制点も決めたが、実際には原因不明の発熱に見舞われ、体調最悪だった。チームもグループ最下位に沈み、10番は眩い輝きを放ったとは言い切れなかった。
こうした悔しさがあったため、中村は2010年南アフリカW杯を集大成にしようと全身全霊を捧げていた。が、直前のケガと体調不良が響いて本大会ではまさかの控え。「W杯で活躍するという夢は叶わなかった」と本人も引退時にも寂しそうに語っていた。