■世界の人々が交流する意義

 そのころと比較すると、今回のワールドカップでは、アバヤ姿のカタール人女性も平気でメトロに乗り、誰はばかることなく街を闊歩している。本当に、カタールの社会は変わりつつあると実感した。そのスピードに我慢できない人びともいるかもしれないが…。

 というわけで、私は、今回のワールドカップを巡る欧米メディアの発する批判意見を丸のみにすることはできない。

 もちろん、何もなかったと言うわけではないだろう。しかしこの間に外国人労働者が何人働き、その死亡率がどれだけ常軌を逸したものであるかのデータも示さず、読者の「負のイメージ」だけに訴えようという報道を、どれだけ信じていいのだろうか。

 開催決定にも、大きなスキャンダルがあったかもしれない。だが東京2020のオリンピックはどうだったのか。

 さまざまないきさつがあっても、私は、今回のワールドカップがカタールの地で開催されたことのポジティブな意味を考えている。

 ドーハの中心地にある人気スポット、スークワキーフは、連日、各国のサポーターでごった返している。一時的には歩行も困難なほどだ。ワールドカップとは、こうして、世界の大衆が何十万人という規模で集まり、交流する場でもある。

 そうした人びとが、ドーハでの1か月間で「イスラムの日常生活」を体験し、アメリカのプロパガンダに毒された「イスラムは悪」などというイメージを払拭し、イスラム文化というものをリスペクトするという思いが生まれるなら、このワールドカップは21世紀の世界を、相互理解に基づくより良いものへの変えていく大きな力になるのではないか。私は本気でそう信じている。

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