■イスラエルを落胆させた「no」の文字
さてPK戦。これが一般化したきっかけをつくったのは、イスラエル・サッカー協会の事務総長ヨゼフ・ダガンである。1960年代末のことだった。
日本が銅メダルを獲得した1968年のメキシコ・オリンピックの準々決勝で、日本と同じアジア代表だったイスラエルはブルガリアと対戦、開始早々に先制点を許したが、終了1分前にジェホシュア・ファイゲンバウムが同点とし、延長戦では双方とも得点できず1-1で終了した。この大会の「次戦出場チーム決定方法」が「抽選」だったのである。
両チームの主将がピッチ上でポットに入れられた封筒をひとつずつ引く。イスラエル主将モルディチャイ・シュピーグラーが引いた封筒にはいっていた紙には、「no」の文字が、そしてブルガリアの主将が取り出した紙には「si」(英語のyes)の文字が書かれていた。イスラエルは大会から去り、ブルガリアは準決勝に進んでメキシコを3-2で下し、決勝に進出した。
イスラエル協会事務総長だったダガンは、こんな残酷で不条理なものを二度と見たくないと思った。彼の脳裏に浮かんだのは、そのころすでに欧州や南米の国内カップ戦などで使われていた「PK戦」だった。5人ずつPKを行い、決着が着かなければ着くまで行うという方法である。
さっそく彼は協会会長のマイケル・アルモグと連名で国際サッカー連盟(FIFA)のスタンレー・ラウス会長宛てに手紙を書いた。この手紙が1969年のFIFAの公式ニュース冊子に掲載され、FIFAの審判委員会にいたマレーシア人のコ・ヨー・テイの目を引いた。彼はFIFAに働きかけ、FIFAの提案によって、IFABは1970年6月27日にスコットランドのインバネスで行われた年次総会で正式に認可したのである。