■W杯決勝を日本に持ち込んだ人物
中学のサッカー部に迎えてくれたTくん、高校サッカー部コーチだったAさん、サッカースクールのアルバイトを教えてくれたKくん、そして少年サッカースクールのコーチとして認めてくれたIさん。彼らの誰かひとりでも欠けたら、私の人生はまったく違ったものになっていただろう。
最近、ときどき、私の人生の「恩人」はいったい誰だっただろうというようなことを考える。さまざまな人が浮かんでくる。本当にたくさんの人の世話になり、なんとかここまで仕事をし、生きてきた。しかし「私をサッカーという世界に引き込んだ人」ということで考えると、上の4人になりそうだ。
おっと、忘れてはならない大事な人を落とすところだった。1966年の夏、ワールドカップ決勝戦の映像を私の目の前に送り届けた人だ。
この番組を見たのは、本当に偶然だった。夏休みの午後、なんとなくテレビをつけたらちょうど番組が始まったところだったのだ。しかし不思議なことに、その後、同じ番組を見たという人に会ったことがなかった。当時の新聞をめくり、テレビ番組表を調べると、放送はたしかにあった。8月7日午後4時半から、TBSで行われたものだった。この大会の決勝戦は7月30日。そのわずか8日後のことだった。
「あの番組を日本にもってきたのは、僕なんだよ」
その言葉に、私はとび上がるほど驚いた。語ったのは故・村田忠男(1932~2009)さん。2002年ワールドカップを前にしたシンポジウムか何かで、私の「ワールドカップとの出合い」を話した後だった。村田さんは、当時日本サッカー協会の専務理事か副会長だったと思う。最終的に共同開催となったが、2002年ワールドカップの日本開催の最大の功労者である。日本サッカー協会内で「時期尚早論」が圧倒的ななか、孤軍奮闘で超党派の「招致議員連盟」をつくり、招致委員会を正式発足させたのが村田さんだった。Jリーグが大きなブームになる前、1991年の6月のことである。