■アイデアマンに率いられた黄金時代
その1930年代のアーセナルの黄金時代を築き上げたのが、1925年に就任して1934年1月に死去するまで監督の座にあった名将ハーバード・チャップマンだった。
チャップマンがアーセナルにやって来た1925年にはオフサイド・ルールが改正された。それまでは、GKも含めて守備側の3人目の選手の位置がオフサイド・ラインだったのだが、2人目の選手のラインに変更されたのだ。そのため、従来のように2人のDFでは守り切れなくなり、大量得点・大量失点の試合が多くなってしまった。
そこで、DFを3人に増やす戦術が発展。そうした傾向を受けて従来のセンターハーフを1列後退させる3-5-2(WMシステム)として確立したのがチャップマン監督だった。ベルリン・オリンピックに出場した日本チームは、現地での練習試合を通じてこの3バック・システムを習得して、スウェーデンでの逆転勝利に結びつけた。
こうして強豪チームを育て上げただけでなく、チャップマン監督はアイデアマンでもあった。赤いシャツに白を付けた現在も使われているアーセナルのユニフォームを考案したのもチャップマンだったし、リーグ戦で初めて選手たちに背番号を着けさせたのもチャップマンだった。また、スタジアム(ハイバリー)に照明施設を付けたのもチャップマンだった。夜間試合の試みは19世紀からあったが、協会(FA)やリーグ(FL)、選手会などは夜間試合を認めようとしなかった。だが、チャップマンは将来を見越して照明を付けさせたのだ。
さらに、チャップマン監督はラジオ放送にも積極的だった。第1次世界大戦で発達した無線通信技術を使って1920年代にはラジオ放送が発展し、スポーツ中継も行えるようになった。だが、主催者側やクラブは「実況中継が行われると観客が減る」と考えて、中継には協力的ではなかった(日本でも大相撲がNHKによる中継に反対した)。しかし、チャップマンはラジオ中継がサッカー人気拡大に寄与すると考えて中継に協力し、アシスタント・コーチのジョージ・アリソンを解説者として派遣したのだという。