後藤健生の「蹴球放浪記」連載第73回 21万人の観衆が目撃したサッカー史上の大事件「マラカナッソ」【W杯決勝スタジアム遍歴ブラジル・マラカナンの巻】(1)の画像
1978年フラメンゴ対パルメイラス戦のチケット 提供/後藤健生
2014年FIFAワールドカップ決勝戦のチケットと宿泊ホテル
王国ブラジルはFIFAワールドカップにおいて唯一、これまでの21大会すべてで本大会出場を果たし、優勝は最多の5回を数える。ところが不思議なことに、1950年、2014年と2度の自国開催ワールドカップでは優勝できていない。第4回大会では頂上決戦でウルグアイに敗れ、第20回大会は準決勝でドイツに1-7と大敗、リオデジャネイロまでたどり着くこともできなかった。そう、サッカージャーナリスト後藤健生のシリーズ特集「ワールドカップ決勝スタジアム遍歴」(その3)は、2回のワールドカップでメイン会場となったエスタジオ・ド・マラカナンだ。

■アルゼンチン優勝を見届け、いざマラカナンへ!

 1939年9月にドイツがポーランド侵攻を開始して第2次世界大戦が始まったため、1942年と46年のワールドカップは中止となり、4回目の大会は1950年にブラジルで開催されました。南米大陸は戦争の被害をほとんど受けていませんでした。もちろん、サッカー界も戦争の被害を受けずに強化が進んでいました。1940年代にはアルゼンチンが黄金時代を迎えており、そのアルゼンチンの攻撃を阻止するためにブラジルでは4バックのシステムが発展したと言われています。

 FIFAが戦後初めてのワールドカップの開催国としてブラジルを選んだのは、そんな状況を考慮したためだったのです。

 1950年の大会開催が決まった後、ブラジルは当時の首都だったリオデジャネイロのマラカナン地区にあった競馬場の敷地跡に新スタジアムを建設することを決定します。巨額の工費が予想されたために反対論もありましたが、スポーツ・ジャーナリストの大御所マリオ・フィーリョが新スタジアム建設を主張し、最終的には新スタジアム建設が決まります(その間の事情については、沢田啓明著『マラカナンの悲劇』(新潮社)を参照)。

 そして、1966年にマリオ・フィーリョが亡くなった後、スタジアムの正式名称は「エスタジオ・ジョルナリスタ・マリオ・フィーリョ」と変更されます。

 有名選手や監督、あるいは政治家や国王の名前が付いたスタジアムは世界中にいくらでもありますが、ジャーナリストの名前が付いたスタジアムというのは他にはほとんど聞いたことがありません。

 1950年のワールドカップは6月24日に始まりました。しかし、新スタジアムの工事はまだ終わっていなかったので、開幕戦のブラジル対メキシコの試合の写真には工事用の足場が映り込んでいます。

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