われらが蹴球放浪家は、創刊して間もない『サッカー批評』誌のためのフランス取材中のある日、パリ郊外の小さな駅で降りて、かつては世界に名をとどろかせたスタジアムを訪れた。まさか22年後に『サッカー批評Web』でその日のことを書くことになろうとは……。ご好評をいただいて始まったシリーズ特集「ワールドカップ決勝スタジアム遍歴」の(その2)は、フランスで開かれた第3回ワールドカップのメイン・スタジアムを取り上げる。
■フランス最古のスポーツクラブの本拠地
1998年に双葉社から『サッカー批評』という雑誌が発刊されました。第3号には僕がフランス取材に行って、約3週間ほど滞在して書いた特集記事が載っています。その取材中のある日、僕は「スタッド」という小さな駅に降り立ちました。パリ北西部のサンラザール駅で通勤電車に乗って3つ目。
「スタッド」というのはフランス語で「スタジアム」という意味です。住宅街を歩いて10分ほどで、目当てのスタジアムが見えてきました。
スタッド・オランピーク・イヴ・ド・マノワール……。1938年の第3回ワールドカップの決勝が行われたスタジアムです(イタリアがハンガリーを4対2で破って2連覇を達成しました)。当時のスタジアム名はスタッド・オランピーク・ド・コロンブ。パリ近郊のコロンブ市にあり、1924年のパリ・オリンピックで使用されたので、こう呼ばれていたのです。
ちなみに、イヴ・ド・マノワールというのはこのスタジアムを本拠地にしていたラグビー・チーム、ラシンの名スクラムハーフで、1928年に軍の訓練中に飛行機が墜落して亡くなったので、1951年以来スタジアムは彼の名前で呼ばれるようになったのです。
1924年にパリでオリンピックが開かれました。パリ開催は1900年に続いて2度目ですが、1900年の大会では特にメインスタジアムのようなものはありませんでした。しかし、1908年のロンドン大会以降どの大会でも大きなスタジアムが用意されるようになっていたので、パリでも10万人収容のスタジアムを建設する計画があったそうです。