後藤健生の「蹴球放浪記」連載第71回「W杯決勝スタジアム遍歴ウルグアイのセンテナリオ」の巻(2)ワールドカップ取材の慣例だった「デポジット」の罠の画像
コパ・アメリカ95のADカード 提供/後藤健生
入場券とセンテナリオで撮った記念写真

オリンピックが終わったかと思ったら、すぐ9月2日にはワールドカップのアジア最終予選が始まる。2018年ロシア大会以来の興奮だ。サッカーというスポーツは、本当にファンをとことん楽しませるようにできている。そこで、第22回ワールドカップ・カタール大会も近いということで、今回からは「ワールドカップ決勝スタジアム遍歴」がスタート。われらが蹴球放浪家・後藤健生は無事にすべてのスタジアムを放浪できたのか? その運命や如何に!

※その1はこちら

 

■「ウルグアイは勝てないよ」とウルグアイ人は言った

 センテナリオを堪能したのは、1995年にウルグアイで開かれたコパ・アメリカの時でした。

 ウルグアイという国はモンテビデオ(人口100万人超)一極集中が激しい国です。たとえば、1995年大会ではアルゼンチンの試合はアルゼンチン国境にあるパイサンドゥーで行われましたが、この町の人口は9万人。ブラジルの試合があったブラジル国境のリベラは6万人でした。そのため、昔も今もウルグアイ代表の試合はセンテナリオで行われ、国内リーグのビッグゲームも、リベルタドーレス杯もすべてここが使われているのです。

 完成から90年以上、センテナリオほど活用され続けているスタジアムは世界でもほとんどありません。

 パイサンドゥーやリベラまでは小型プロペラ機の関係者用特別便が飛びました。試合時間に合わせてモンテビデオを出発し、試合終了後の深夜便で戻って来るのです。特別便なので、隣にニコラス・レオス(当時の南米連盟会長)が座っていたりします。

 ある時、リベラで試合を見た後、空港に戻ってくると飛行機がいなかったという事件がありました。飛行機はリベラに着いた後、空港で待っているわけではなく、別の仕事を済ませてからリベラに戻ってくる手筈だったのですが、戻りが遅くなっていたのです。

 ようやく午前3時くらいになって飛行機が1機だけやって来ましたが、乗客が定員より多いので2往復することになり、僕は第1便に乗れたので明け方にはモンテビデオに戻れましたが、第2便に乗るために空港に残った人たちはその後どうなったんでしょう?

 とにかく、この年もラプラタ河にはよく霧が発生しました。そして、ウルグアイはどこの町もとても寒く、マルドナードでブラジル対アメリカ(招待国)の準決勝を観戦した時、気温は氷点下3度にまで下がりました(観客は400人!)。

 この大会、エンソ・フランチェスコリ率いるウルグアイが優勝したのですが、大会中にウルグアイ人に聞くと、専門家も一般人も口をそろえて「優勝はブラジルかアルゼンチン。ウルグアイは勝てないよ」と言うのです。2つの大国にはさまれたウルグアイ人は内心では自国の活躍を期待しているに違いないのに「いや、どうせ勝てないよ」と言うのです。

PHOTO GALLERY 入場券とセンテナリオで撮った記念写真
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