ストイコビッチが来日し、名古屋グランパスでプレーをはじめてまだ日がたっていない頃、テレビ番組の取材でプレースタイルを聞かれて、「ジューバン、ジューバン」とたどたどしく答えていたのを覚えている。「10番」と言えばすべてが通じる。背番号にも、自分のプレーにも絶対的な誇りを抱いていることがストレートに伝わって来た。このように、サッカーというスポーツにおいて、背番号は観戦者に多くのことを物語っているのである。どうですか? いろいろと詳しく知りたいと思いませんか?
■独自に発展したブラジルの背番号
イングランドやドイツなど欧州のサッカーではWMシステムが主流になり、背番号もイングランド発祥のものが広まった。その後の戦術的な発展においても、5番だけでなく、初期のイメージがしっかりと守られていた。ところが大西洋を隔てた南米では、欧州ほどWMが広まらなかったのではないか——。それに思い付いたのは、「ダイヤモンドサッカー」で1970年のワールドカップ・メキシコ大会のブラジルをじっくり見た後だった。
GKは背番号1をつけたフェリックスだった。変わっていたのはDFラインだ。センターバックのブリトとピアザが2番と3番をつけ、右サイドバックのカルロス・アルベルトは4番、そして左サイドバックのマルコ・アントニオは6番だった。そして中盤で守備的な役割を演じる「ボランチ」は、背中に5番を背負ったクロドアウドだった。
この背番号は、ブラジルの戦術的発展をそのまま表しているのではないか——。ブラジルの4−2−4システムは1958年のワールドカップを通じて衝撃を与え、世界の標準となっていくのだが、ブラジルでは「センターハーフ」が両フルバックの間にはいるという3バックのスタイルは定着せず、「両サイドハーフ(4番と6番)」が2人のフルバック(2番と3番)の外側のスペースを守るという形で4バックに移行していったのではないか——。
「背番号10」は、ブラジルのサッカーで(そして世界のサッカーで)最も特別な番号である。1958年のワールドカップ・スウェーデン大会で17歳のペレがつけ、たちまち伝説となり、世界のサッカープレーヤーたちがあこがれることになる。しかしこの番号は、実は偶然の産物だった。
ワールドカップでは、その前回の1954年スイス大会から全選手が大会を通じてつける番号を大会前に登録することが義務づけられていた。当時のワールドカップは1チーム22人だから、1番から22番をつけるわけである。
ブラジルのワールドカップチームは、レギュラー選手にポジションどおり1番から11番を与え、12番から22番(当時のワールドカップは22人登録)という形がこの後も長く続く伝統だった。すなわち、大会の初戦では、1954年大会をはじめ、多くの場合、キックオフを待つピッチ上には1番から11番が立つのである。ところが1958年大会の大会登録時に、ブラジルのサッカー協会(当時の正式名称はブラジルスポーツ連盟=CBD)が、選手名簿提出時に背番号の記入を忘れてしまった。