■バレンチノ・マッツォーラが示した友情

 現在は、EUの一員として大きな経済発展を遂げているポルトガルだが、当時は西欧で最も貧しい国として知られていた。イタリアのセリエA5連覇が視野にとらえられた「グランデ・トリノ」きってのスター選手として大きな報酬を得ていたマッツォーラだったが、ポルトガルのチャンピオン・クラブと言ってもフェレイラが所属するベンフィカの選手たちがどんな報酬でサッカーをしているのか、よく理解していた。そしてそんなベンフィカで10シーズン以上活躍してきたフェレイラの引退試合(その利益が、フェレイラに贈られる)でできるだけ稼げるようにしてやりたいという仲間意識が、快諾の最大の理由だった。

 トリノに戻ると、マッツォーラはクラブ会長のフェルッチオ・ノボに許可を求めた。だがノボは冷たかった。

「リーグ優勝が最優先だ。親善試合なんか、考えているヒマはない」

 ジェノバでの試合から1カ月後の3月27日、イタリア代表はスペイン代表との親善試合でマドリードに遠征した。ノボも遠征に同行することを聞きつけたフェレイラは、自らマドリードにおもむき、そこでマッツォーラを交えて再交渉を行った。ノボは折れ、「2位インテル・ミラノとの直接対決に負けなければ、ベンフィカとの親善試合を許す」と、リスボン遠征を認めた。

 しかしインテルとの試合の予定は5月1日日曜日。ベンフィカ戦は5月3日火曜日と決めたので、この時点で、ノボはすでに5連覇に確信をもっていたのだろう。やっかいだったのはインテル戦を1日前倒しして4月30日土曜日にすることだった。この試合は、サンシーロ、すなわちインテルのホームでの開催だったからだ。だがマッツォーラの熱意にリーグ側が変更を認め、インテルは不承不承従った。試合は3万6000人(当時のサンシーロの収容数は5万)のファンの前で0−0の引き分けに終わり、4節を残してトリノの優勝は確定的になった。

 その夜、選手たちはミラノまで観戦にきていた家族たちと短い時間を過ごすと、そのままミラノのホテルに残って翌朝の出発に備えた。リスボンへの「アビオ・リネエ・イタリアネ」航空のチャーター便は、トリノから東北東に125キロ離れたミラノから出ることになっていたのだ。出発間際のミラノの空港でひと騒ぎあった。同行するはずだった記者の何人かが、座席が足りないため搭乗を拒否されたのだ。会長のノボは、小さな手術を受けたばかりだったので、遠征同行を諦めた。

 

  1. 1
  2. 2
  3. 3