後藤健生の「蹴球放浪記」連載第56回「江戸時代の“旅”をしのんで」の巻の画像
名鉄の本宿駅から豊橋方面を望む。右の道路が国道1号 提供:後藤健生
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江戸っ子だってねえ。おう、蹴球参りよ。どこのスタジアムでも乗合自動車に乗って取材に行っちゃう筆者を車中で見かけたら、読者です、と声をかけてみてください。旅は道連れ、世界のサッカーの面白話を聞くことができるかもしれません。というわけで、今回は蹴球道中バス栗毛――。

■すたじあむ参りは乙なもの

 愛知県の岡崎市に本宿町(もとじゅくちょう)という全国的にはまったく無名の町があります。江戸時代の東海道の宿場です。

 宿場といってもいわゆる「東海道五十三次」の一つというわけではありません。「五十三次」というのは幕府公認の正規の宿場で、東海道の場合、平均約9.2キロの間隔で設置されていたそうです。

 江戸時代の(あるいはそれ以前の)「旅」というのは現在とはまったく違うものです。なにしろ飛行機や鉄道、自動車といった移動手段がなかったので、すべて自分の足で歩いて移動するわけです。お金持ちなら駕籠や馬に乗ることもできますが、これも基本的には人間が歩く速度でしか移動できません。

 京と大坂の間には淀川を行き来する「三十石船」という便利なものがあって、船の中で眠っているうちに目的地に到着できたそうですが……。

 古典落語をお聞きになったことがある方は、そうした旅の情景を生き生きと思い浮かべることができることでしょう。故・三遊亭圓生師匠の「三十石」などは、これは、ま、なんといっても絶品でげすな(つい、江戸言葉が入ってきますな)。

 落語にも出てくるように、当時の旅は伊勢神宮を訪ねる「お伊勢参り」とか、江戸に近い大山阿夫利神社に参詣する「大山参り」といった信仰のための旅ですが、それは表向きで実際の目的は物見遊山、要するに観光旅行です。それで酒が入るってえと、喧嘩っ早い江戸っ子のことですから騒動が巻き起こるというわけです。

 日本全国、たとえば東北地方から一般の農民が農閑期になると徒歩で伊勢神宮に行って、さらに上方見物をしてお土産物を携えて翌春までに帰ってくるというのですから、豪儀な話でげす。最近の研究によれば、江戸時代の平均的な旅人は1日に34キロくらい歩いたそうです(注)。老いも若きも、男も女もそれを毎日続けるのですから、たいしたもんでげすな。

(注)谷釜尋徳『歩く江戸の旅人たち スポーツ史から見た「お伊勢参り」』(晃洋書房、2020年)

 宿場は9キロごとにあるのですが、日が暮れるまでに次の宿場に着くように計算しながら歩かなければなりません。なにしろ、当時は夜道は物騒でした(狐や狸に化かされたり、追剥ぎが出てきたりします)。

 正規の宿場と宿場の間には「間の宿(あいのしゅく)」と呼ばれる村がありました。途中で食事をしたり、休憩をしたりするための施設ですが、宿泊ができるところもあったようです。「間の宿」で客を泊めるのは、本当は違法だったようですが。

 愛知県の本宿も、五十三次の赤坂宿と藤川宿の間にある「間の宿」でした。

 僕がこの本宿を初めて訪れたのは、15年ほど前のことでしたか……。

 豊田スタジアムに行く時にここを利用するのです。

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