■先駆者・奥寺康彦との共通点

 ピッチの上の22人の選手の中でサッカーというゲームを最も深く理解しているのが長谷部だったことは間違いない。

 そこで僕は、遠い昔、奥寺康彦が初めて海を渡って西ドイツ(当時)に渡っていった頃のことを思い出した。

 半世紀近く前の1977年のことだった。日本サッカーリーグ(JSL)は低迷期にあり、日本代表も「メキシコ五輪世代」の引退とともに弱体化してワールドカップ出場もオリンピック出場も夢また夢といった時代だった。そんな時代に、「日本人が、西ドイツのプロリーグでやっていけるものなのだろうか?」と誰もが疑問に思った。

 西ドイツに渡る直前の奥寺は、フィジカルの強さとスピードを生かしたFWだった。JSLでは、スピードだけで相手のDFをぶっちぎりにできるスピードスターだった。

 だから、「スピードという面でなら西ドイツでも勝負できるのかもしれないな」と思って、僕たちは奥寺を送り出した。つまり、「ゲームの組み立てといった難しい仕事は日本人選手には無理なんじゃないか」と思ったわけだ。実際、1FCケルンを率いていた名将ヘネス・バイスバイラーは、スピードのあるウィンガーを探していてたまたまトレーニングに訪れた奥寺に目を付けてオファーを出したのだった。

 しかし、その後、奥寺はいくつかのチームを渡り歩いた末にヴェルダー・ブレーメンでオットー・レーハーゲル監督と出会い、サイドバックもしくはウィングバックとしてプレーするようになり、「東洋のコンピューター」と呼ばれる選手に変身していった。

 ゾーン・ディフェンスでのサイドバックとしてプレーできる戦術的な能力が高く評価されたというのだ。つまり、世界最高峰のブンデスリーガで、奥寺はスピードの部分ではなく、戦術理解度の部分で戦ったのだ。

 そして、現在、ブンデスリーガで最年長選手となった長谷部誠も、その戦術理解度で周囲のドイツ人プレーヤーを凌駕する存在となっている。

 今から半世紀近く前、日本のサッカー低迷期にも一人の日本人プレーヤーがその戦術理解能力で活躍していたのだ。そのことを考えれば、日本のサッカーが大きく発展し、日本代表はワールドカップの常連となったこの時代、その日本代表でも長くキャプテンを務めた長谷部が頭脳的なプレーで活躍しているのはけっして不思議なことではないのかもしれない。

※第3回に続く

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