■13年後のバンコクでの再会

 しかし、張雄氏はれっきとした北朝鮮生まれ、北朝鮮育ちで、英語も平壌外国語大学で習ったものだそうです。

 案内人は監視が仕事です。「勝手にホテルを出ていくと慌てて案内人が飛んでくる」ということを本で読んでいました。ところが、この時は外出も自由でした。

 僕は勝手にホテルを出て歩き回りました。金日成広場(いつも軍事パレードが行われるところ)の北側の外務省の建物では、地方から出てきた貧しい労働者たちが中庭にバラックを建てて住み着いているのを発見してビックリ。平壌駅では、乗車券の買い方を観察したり、壁に掲示してあった時刻表を撮影したりとスパイみたいなことをしていました。

「これは貴重な資料だ」と思ったのですが、帰国後に『トーマス・クックのタイムテーブル』を見たら、北朝鮮の列車の時刻表もちゃんと載っていました。『トーマス・クック』は世界中の列車の時刻表が載っている本で、インターネットがない時代には旅行の必需品でした。

 当時、僕はハングル文字を辛うじて読める程度の知識しかありませんでしたが、たまに意味が分かると「あれは、どういう意味か?」などと質問してみました。すると、案内人たちは時々僕の朝鮮語をテストしてきました。いきなり、「ソバとウドンとどっちが好きですか?」といった質問をして、こちらの反応を見るのです……。

 案内人とは毎晩のように宴会を行い、焼酎で酔っ払って勝手なことを言い合ったりして、それはそれで楽しい時間を過ごさせてもらいました。

 それから13年、1998年にタイのバンコクでアジア大会がありました。

 女子サッカー決勝が終わり、僕は記者席からスタンド下まで下りていきました(優勝は中国で2位が北朝鮮。日本はまだ中国にも北朝鮮にも勝てない時代でした)。すると、メダルのプレゼンターとして張雄氏がそこに立っていたのです。

 懐かしい気持ちになりましたが、もう13年も前のことです。「僕の顔など覚えていないだろうな」とは思いましたが、一応挨拶だけでもしておこうと彼の方に歩いて行きました。すると、張雄氏は僕のことをみつけて、「やあ、ゴトウさん。元気ですか」とあちらから声をかけてきたのです。立ち話をしただけですが、張雄氏は辺見庸さん(連載第33回を参照)が芥川賞を取ったことまで知っていました。

 その後、朝鮮総連の人にこの時の話をしたら、「そうです。張雄さんというのはそういう人なんです」ということでした。

 張雄氏……。僕の人生の中でも忘れがたい人物の一人です。

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