後藤健生の「蹴球放浪記」連載第34回「張雄(チャン・ウン)氏の思い出」の巻の画像
メーデー(5.1節)祝祭への招待状 場所:綾羅島遊園地 日時:1985年5月1日9時 主催は「朝鮮職業総同盟中央委員会」とある。そばではメーデー・スタジアムが建設中だった。提供:後藤健生
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1985年に北朝鮮で出会った忘れがたい人物がいる。その後、新聞やテレビの画面などでは何度もお目にかかったのだが、13年後のバンコクで偶然にも再会を果たしたとき、そんなブランクなどまったくなかったかのように声をかけてきてくれた――。

■毎日違ったキム・イルソンバッジ

 前回に引き続き、ピョンヤン(平壌)に行った時のお話にお付き合いください。

 外国からの訪問団が北朝鮮を訪れると、必ず「指導員」と呼ばれる案内人が付きます。要するに監視役です。

 メキシコ・ワールドカップのアジア1次予選のために北朝鮮を訪れた日本代表。日本からは10人の報道陣が同行しました。この10人のために、案内人として、日本語通訳を含めてなんと5人も付いたんです。「案内人が多いのは、皆さんの便宜を図って」だそうです。
“大物”も混じっていました。

 たとえば李正浩(リ・ジョンホ)氏は北朝鮮の卓球協会副会長で国際卓球連盟(ITTF)理事、アジア卓球連合(ATTU)副会長という肩書でした。

 北朝鮮オリンピック委員会事務局の張雄(チャン・ウン)氏もいました。

 張雄氏はその後、国際オリンピック委員会(IOC)委員となり、北朝鮮スポーツ界のリーダーとして長く活躍。オリンピックを巡って「南北合同チーム結成か」といったニュースが流れる度に必ず北朝鮮の代表として交渉に当たっていました。

 張雄氏は案内人たちの中でもひときわ目立っていました。まず、元バスケットボールの選手だっただけあって背が高く、しかも背筋をピシッと伸ばしてとにかくかっこいいのです。

 スーツの着こなしも見事でした。北朝鮮のエリートたちは、皆、スーツ姿でしたが、着こなしは流行遅れで垢ぬけない印象でした。しかし、この張雄氏は違いました。

 北朝鮮の人たちは皆、金日成(キム・イルソン)主席の顔が描かれた「キム・イルソンバッジ」を着用しています。しかし、よく見ると張雄氏だけ毎日違ったバッジを着けて現れるのです。それで、「いくつも持ってるんですか?」と聞いたら、こんな答えが返ってきました。

「ネクタイの色に合わせているんですよ」

 そして、張雄氏はとても流暢な英語を話しました。

 案内人たちは日本語通訳以外の人も、みなそれぞれ外国語に堪能なようで、李正浩氏はなんとアラビア語が専門だそうです。

 張雄氏の英語はとにかく流暢でした。

 それで、バスケットボールの選手だったということもあって、僕は最初、「もしかしたら彼はアメリカ生まれなのではないか」とさえ思いました。つまり、韓国で言う「在美僑胞(ジェミキョッポ=“美”はアメリカのこと)」ですね。

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