■初の国際大会でバルセロナの名選手と対戦
しかし、日本代表の東京高師は初戦では中国に0対5、第2戦ではフィリピンに2対15という大敗を喫してしまった。中国の代表は英国植民地だった香港の南華体育会で、英国人相手の試合経験が豊富だった。また、フィリピン代表のボヘミアンズには、FCバルセロナで数々の得点記録を打ち立てたレジェンドの一人パウリーノ・アルカンタラが在籍していた。アルカンタラはフィリピン人の母を持つフィリピン生まれだったからだ。
結果は大敗に終わった。しかし、この大会は日本サッカーとって大きな刺激となったようで、その後、東京高師や豊島師範の卒業生が集まって東京蹴球団が作られ、また、各地でサッカーの大会も開かれるようになっていった。
関西では1917年10月の「近畿蹴球大会」に続いて1918年1月に開かれたのが全国高校サッカー選手権大会の前身となった「日本フートボール大会」であり(ただし、出場したのは関西のチームだけ)、同年2月には「関東蹴球大会」や「東海蹴球大会」も開催された。
そうなれば、次は全国大会開催が目標になるのは当然だ。そして、そのためには日本のサッカーを統括する全国的な団体つまり協会を設立しなければならない。しかし、会長の人選などで手間取ったため、協会設立と全国大会開催はなかなか実現されなかった。
しかし、1919年3月にイングランドの協会(ザ・フットボール・アソシエーション=FA)から突然「将来日本で協会が設立されてFAカップのような大会が開催された時に優勝チームに贈るために」として日本に銀杯が送られてきたのだ。