8月20日、日本のサッカー界を牽引してきた内田篤人の引退が発表された。同23日のホームG大阪戦(カシマスタジアム)がラストマッチになる。
鹿島で史上初の3冠達成、シャルケで欧州チャンピオンズリーグのベスト4入り、日本代表メンバーとしてW杯に2度の選出など、輝かしい実績を誇る。
その内田に、弊社が発行する『Football Bar』(フットボール・バル)で、かつて2万字インタビューを敢行。内田は何を考え、何を目指していたのか。2014年当時のインタビューからその思いを探る。
内田は2006年にプロ入りし、4年半、鹿島でプレーしてからシャルケに移籍した。ブンデスリーガだけでなく、チャンピオンズリーグやヨーロッパリーグといったヨーロッパを舞台にして戦ったことについての重みは、誰よりも知っている。
「ヨーロッパの舞台で何ができるかですよね。そこに関しては自分も意識してきたし、4年前からガラって変わったのは僕だって、そういう自信はあります。チームにも恵まれましたし。まあ、そういうチームを選んでくれたのは、代理人(秋山祐輔氏)でしたからね。僕はシャルケ自体を知らなかったから(笑)。失礼な話ですけど。『え? シャケ?』みたいな(笑)。でも、試合を見に行ったらスタジアムの雰囲気もすごくよかったんですよね。だから、ここでいいよって」
内田が移籍した2010年は、南アフリカW杯があった年だった。当時の日本代表監督だった岡田武史氏に、W杯直前のスイス合宿で「お前、シャルケ行くらしいけど大丈夫か?」と聞かれたという。W杯が始まる前に、すでに移籍の決断はしていたのだと。
その2010年のW杯は、メンバーに選出されたものの試合に出ることはかなわなかった。W杯直前のセルビア戦から、試合メンバーから外れるようになっていた。
「体調は2009年からよくなかったです。ずっと吐きながらやってたし。でも、休めないじゃないですか。だから、悪循環だったというか。でも、そこまで行って、使ってもらえないのは、自分の力がないということだと分かってましたし。戦術変更で代わるぐらいの選手だったってことですよね、たぶん」
冷静に自分を見つめている、といえばそうも言える。一方で、苦しかった時代を、やっと振りかえれるようになったようにも思える。
当時、岡田監督率いる日本代表は、W杯を前に厳しい状況にあった。強化試合に負け続け、一時、サッカー協会に「進退伺い」とも取れる発言をしたことなど、混迷を極めていた。その状況で、それまでの主力選手から一気に入れ替える決断をした。内田は、その陰の部分に入ってしまった。
「でも、それで勝つならいいじゃないですか。だって、それが監督の仕事ですからね。俊さん(中村俊輔)も代えちゃったし。年齢的には僕なんかの比じゃないですからね。プレッシャーとか、重圧とかは」