■香港を魅了した技巧派の選手たち
北朝鮮戦の先発メンバーは右SBが都並から田中真二に変わっただけで、あとは中国戦と同じ。ただし、マカオ戦からは木村が右サイド、横山が左サイドでプレーするようになっていた。首脳陣も、まだ手探りだったのだろう。
北朝鮮は、1966年のイングランド・ワールドカップでイタリアを破ってグループリーグを突破。準々決勝でもポルトガル相手に運動量を生かしたサッカーを展開。一時は3点をリードし、その後、ポルトガルに5点を奪われて大逆転負けしたものの、世界に衝撃を与えた国だ。その後は、世界の舞台で活躍する機会はなかったが、1978年のアジア大会(バンコク)では、決勝戦で韓国と引き分けて両者優勝となっていた。
まさに、アジアの強豪の一角だった。
ポルトガル戦で、ポルトガルの長身FWジョゼ・トーレスに手を焼いたことから、その後、北朝鮮は長身選手を集めてチーム作りを進めていたが、そんな中で唯一小柄なテクニシャンで、柔軟なプレーを見せていたのが金用男(キム・ヨンナム)だった。
だが、日本との試合では金用男はベンチスタートだった。
そのせいだったのか、前半は両チームともにチャンスを作れないまま折り返したが、後半は金用男も登場してゲームが動き出した。そして、ボールを支配した日本が何度もチャンスを作った。風間のドリブルシュートで幕を開け、横山のクロスに長谷川がフリーで合わせた場面もあったが、長谷川はボールに触れられなかった。
この頃になると、香港のファンは完全に日本を応援するようになっていた。とくに、トリッキーなドリブルを見せる金田の人気が高く、広東語の発音で「カムティン、カムティン」と声援が飛んだ。
その後も日本がゲームを支配するものの、スコアレスのまま延長戦に入り、延長の後半111分に日本の守備のバランスが崩れ、痛恨の失点を喫してしまう。左からの長いパス1本で金用男がフリーとなってしまい、追いすがったリベロの前田が無理なタックルを試みてはずされてしまったのだ。
1点を追う日本は、延長後半終了間際にゴール正面でFKを獲得する。木村がそっとボールをセットすると、スタンドからはワーッという歓声が沸き起こった。木村のFKは、香港でも有名になっていたのだ。しかし、ゴールの右上隅、クロスバーすれすれを狙った木村のFKは、GKの金昌根(キム・チャングン)にかき出され、決定力を欠いた日本の予選敗退が決まった。
なお、香港での予選大会決勝では、中国が延長戦の末に北朝鮮を破って優勝。ホーム&アウェーで行われた最終予選でも中国は順調に勝点を伸ばし、得失点差でも大きくリードしてスペイン行きに王手をかけた。しかし、最終のサウジアラビア戦で大敗を喫してしまい、勝点、得失点差ともにニュージーランドに追いつかれ、中国はプレーオフで敗れてワールドカップ出場の夢を絶たれた。
一方、香港の大会ですばらしいパス・サッカーを展開した日本代表。川淵は1981年に入ってすぐに予定通り監督の座を退き、森孝慈が監督に就任。目標としていたロサンゼルス・オリンピック予選では最終予選でベテランを復帰させたことでチームの一体感を失い、4戦全敗という惨敗を喫してしまったが、1985年に行われたメキシコ・ワールドカップ予選では最終予選まで進出してファンを驚かせた。しかし、ホーム&アウェーで行われた最終予選では韓国に連敗して、日本のワールドカップ出場はならなかった。韓国との2試合で唯一の得点となったのは、あの木村和司の伝説のFKだった。