■アウェー観衆が日本のファンに
中国戦の日本チームの陣容はこうだった。
GKは鈴木康仁。21歳の若い守護神だ。守備陣はこのチームきってのベテランの前田秀樹(26歳)がリベロで、ストッパーには23歳の菅又哲男。SBは左が24歳の須藤茂光、右が19歳の都並敏史(後に左SBとして有名になる都並はこの時は右SBだった)。DF陣は4人のうち初招集は都並だけで、ベテラン中心で構成されていた。
MF陣は若かった。中盤の底には当時19歳で筑波大学の学生だった風間八宏。風間は大学卒業後も日本リーグのチームには入らず、1984年にドイツに渡ってしまったので、その後、日本代表ではあまりプレーしなかった。トップ下の戸塚哲也も19歳で初代表。読売サッカークラブの育成組織で育ったテクニシャンだった。その後、得点能力を開花させ1984年には日本リーグの得点王にも輝いたが、「代表に行くと下手になる」と言って代表を辞退したりしたため、戸塚は代表ではほとんど実績を残していない。その戸塚と絶妙のコンビネーションを見せたのが攻撃的MFの22歳の金田喜稔。代表デビュー戦となった1977年の日韓定期戦でいきなり得点を決めるなど、すでにA代表でも活躍しており、ドリブルが得意なFWだったが、この大会では中盤でプレーしていた。
前線は、右ウィングが横山正文で左ウィングが木村和司。横山は24歳でモスクワ・オリンピック予選から代表入りしており、香港の大会の前に9試合に出場し、4ゴールを決めた実績があった。22歳の木村和司は後にMFとして大成し、スペシャルライセンスプレーヤー、つまり日本におけるプロ第1号となるのだが、この時はウィンガーとしてプレーしていた。
広島県工出身の先輩、後輩である金田と木村は、その後もいろいろな組み合わせで試され、最終的には日産の加茂周監督が木村をMF、金田をFWで起用し、代表でもこの並びで活躍することになる。だが、香港では金田がMF、木村はウィングだった。
CFで起用された長谷川治久は23歳だが、1978年には代表入りしており、モスクワ五輪予選にも出場していた。後に代表の名ストライカーとなる早稲田大学の原博実もすでに代表入りしていたが、この大会ではベンチを温める時間が長かった。
さて、開始早々、中国に先制された日本だったが、その後はドリブルとパスをつないで再三のチャンスをつかむ。しかし、シュートがポストに嫌われる場面もあって最後まで得点できずに0対1の敗戦に終わってしまった。とはいえ、強豪中国相手にこれだけの試合ができたのは驚き以外の何物でもなかった。
初めは中国を応援していた香港のファンも、試合の終盤になると日本の攻撃に拍手を送るようになっていた。香港のファンは日本が披露したような技巧的なサッカーが大好きなのである。たとえ、それが憎き日本のチームであったとしても……。
日本はグループリーグの2戦目でマカオと対戦。チーム力に差があったため開始直後から日本がボールを支配して優位に試合を進めた。そして、開始6分に戸塚のミドルシュートがポストに当たったのをはじめ、再三の決定機をつかむがどうしても決められず、前半終了間際に金田のクロスを長谷川が頭で決めたが、オフサイドでゴールは認められず、後半も同じような展開が続いた。
ようやく先制点が生まれたのは66分だった。ゴール正面のFKを木村が4人の壁を巻いて決めたものだ。
木村のFKは、関東大学リーグなどで見たことはあったが、この香港の大会では高い確率でゴールの枠をとらえられるようになり、その後、日本代表にとって最大の得点源となっていく。
その後、日本は前田のPKと長谷川のヘディングで2点を追加し、3対0で勝利してグループリーグ2位で準決勝に進出。準決勝では北朝鮮と対戦することになった。