■川淵三郎監督の大胆な代表選考
1980年3月にマレーシアの首都クアラルンプールで開催されたモスクワ・オリンピック予選でも、日本代表はそういう戦いをするしかなく、韓国には1対3で完敗し、マレーシアとも1対1で引き分けて3位に終わり、ミュンヘン、モントリオールに続いてオリンピック予選で3大会連続の敗退に終わった(マレーシアが韓国を破って予選突破を決めたが、本大会はボイコット)。
この大会の後、下村幸男監督が退任すると、日本サッカー協会は後任としてメキシコ・オリンピック当時のFW渡辺正を選出した。あの、アーセナル戦の先制ゴールの場面で釜本にクロスを入れた選手だ。
渡辺監督は次の目標であるロサンゼルス・オリンピック予選に向けて若返りに着手した。
当時、日本代表にとって最大の目標はオリンピックだった。プロも参加するワールドカップはあまりにも水準が高く、しかもアジア枠は「0.5」もしくは「1」だった。一方、オリンピックでは銅メダル獲得という成功体験があったし、そして何よりも日本サッカー協会はアマチュアリズムに凝り固まった日本体育協会の一員だったからでもある。
ワールドカップ予選には出場するが、「本気で予選突破を狙う」というよりも、次のオリンピック予選に向けて若手に経験を積ませるのが真の目的だったのだ。
1982年に開催されるスペイン・ワールドカップに向けてのアジア一次予選第4組は1980年12月から翌1981年1月にかけて香港の政府大球場で開催されることになっていた。
しかし、渡辺監督は大会を前にクモ膜下出血で倒れてしまう。
予選大会まで時間もなかったため、後任監督には強化委員長だった川淵三郎が暫定的に就任。そして、川淵は思い切って若手中心の代表を編成したのだ。20人の選手の平均年齢は21.6歳。9人が初招集という構成だった。「思い切りの良さ」は川淵の真骨頂である。
実は、川淵は、日本体育協会の援助を受けて西ドイツにコーチ留学中だった森孝慈を呼び寄せて監督に就任させるつもりだったのだ。だが、森は若手選手についてほとんど知識を持っていなかったため、川淵監督・森コーチという体制でワールドカップ予選に挑むことになった。
しかし、若手中心の代表は不安だらけで、東京・国立で行われた壮行試合では、釜本や碓井博行、西野朗、藤口光紀といったスターFWが居並ぶ「日本代表シニア」に2対3で敗れてしまう。当然、香港での大会に期待する人はほとんどいなかった。
取材のために日本から派遣されたメディアは『サッカー・マガジン』の今井恭司カメラマンだけだった。写真を撮りながら、原稿も書いていたのだ。サポーターも僕を含めてわずかに3人だけだった。テレビ中継はもちろんなかったし、新聞もベタ記事だった。
従って、香港での大会のことは日本ではほとんど報道されなかった。しかも、シンガポールとマカオには勝利したものの、中国、北朝鮮にはともに0対1で、“予想通り”の敗退に終わったため、まったく注目を集めることはなかった。
しかし、この大会は実は日本代表の歴史における大きなターニングポイントとして記憶されるべき大会だった。
おそらく第二次世界大戦後の日本代表の戦いの中で、日本がポゼッションで圧倒的に相手を上回る試合を展開したのはこれが初めてだったはずだ。
※後編に続く