日本代表「夢の中盤」——1980年、香港で見た(前編)の画像
前列左から、加藤久、木村和司、金田喜稔、戸塚哲也、横山正文。後列左から田口光久、西村昭宏、都並敏史、菅沼哲男、野村貢、尾崎加寿夫  1982年ジャパンカップでのフェイエノールト戦キックオフ前の集合写真。写真:山田真市/アフロ
テレビ中継はない。送り込まれた報道陣はカメラマンがひとりだけ。スペイン・ワールドカップのアジア一次予選で、日本代表は第二次大戦後はじめてパス・サッカーでゲームを圧倒してみせた。1980年香港で、歴史の目撃者となったは、スタンドの3人の日本サポーターだけだった。

■頑張って、蹴って、走る

「日本のスタイルはポゼッション・サッカーだ」というのは、今では世界の常識のようになっている。

 アジア諸国は、日本と対戦する時には「日本にボールを持たれるのは当然」と考え、自陣でしっかり守って一発のカウンターあるいはストライカーの個人能力の勝負によって日本ゴールを脅かそうとする。ブラジルなども、最近はわざと日本にボールを持たせておいて、カウンターで効率的に仕留めることを狙ってくることが多い。

 しかし、今から40年ほど前まで、国際試合の場で日本がボール支配率で相手を上回ることなど考えられないことだった。

 僕が日本代表の試合を見るようになったのは1960年代後半のことだったが、当時、最も印象に残った試合の一つが1968年5月に来日したアーセナル(イングランド)との戦いだった。国立競技場での第1戦では右からのクロスに釜本邦茂がダイビングヘッドで合わせて日本が先制して満員のスタンドは大いに盛り上がった。最終的には逆転されて1対3の敗戦に終わったものの、「日本代表が大善戦した」という記憶が強く残った試合だった。

 ところが、数十年後にこの試合のビデオ映像を見直してみると、日本はほとんどボールを持つことすらできていなかった。ゴール前に釘付けにされた日本は守備陣が頑張ってクリアするのだが、すぐにセカンド・ボールを拾われてアーセナルの波状攻撃を受け続ける。そして、たまたまクリアが釜本のところにつながった時だけ、前線でボールが収まることで攻撃の形が作れていたのだ。

 銅メダルを取ったメキシコ・オリンピックでの戦いも基本的には同じことだった。

 日本は4人のDFラインの後ろにスイーパー(鎌田光夫)を置いて守りを固め、MFの宮本輝紀などを経由して、あるいはウィングの杉山隆一がドリブルで持ち込んで釜本にボールを渡す。それが“戦術”だったのだ。そして、少なくともオリンピックではそれが通用した。

 しかし、釜本が引退してしまった後は、その“戦術”も使えなくなってしまう。

 当時の日本は、韓国と比べると技術、戦術、体力のあらゆる面で劣っており、善戦はできても勝つことは不可能であり、韓国相手には1959年から74年まで15年間にわたって一度も勝てなかったし(注)、東南アジア相手には走力や戦術で上回ってはいたものの、テクニックでは東南アジアと比較しても劣っていた。そして、1980年代に入って台頭してきた中東勢にはあらゆる意味で敵わなかった。

「頑張って蹴って走る」。それが、当時の日本代表の戦い方だった。

(注)1967年のアジアカップ予選で日本のB代表が韓国A代表に勝ったことがあるが、日本代表の公式国際試合ではない

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