■ヒトの集団の“記憶”も同様の機能を持っている
僕たちは、なんの疑いもなく「自分が日本人だ」とか「オレは韓国人だ」、「いや、〇〇人だ」という気持ちを持っている。「国籍」という意味であれば、自分が何人なのかということは法的に明確である。だが、もっと一般的な意味で「自分は何人だ」というアイデンティティあるいは国民意識は何によってできあがっているのか……。
言語や宗教というもの意味も大きい。とくに、日本人の場合、日本語はこの列島に住むわれわれだけが使っている言語なので、「日本語を母国語とするのが日本人」だと定義することもできる。
だが、英語とかスペイン語といった世界言語を使っている人々、カトリックとかムスリムといった世界宗教を信じている人々人にとっては、言語や宗教がそのまま国民としてのアイデンティティにつながるわけではない。逆に、一つの国でありながら複数の言語を使い、複数の宗教を信じているベルギーやスイスのような国もある。
なぜ、彼らは「自分は(同じフランス語をしゃべる)フランス人ではなくベルギー人だ」と思っているのか。その理由を探っていくと、個人のアイデンティティがエピソード記憶に基づいているのと同じように、集団としてのアイデンティティ(つまり、国民意識)という面でも、やはり集団の“記憶”が重要な役割を果たしている。
我々が知っている日本神話は、日本書紀や古事記の編纂者が政治的な意図に基づいて古来からの伝承を組み合わせて編み出した国民統合のための物語だし、日本人なら誰でも知っている(そして、日本人以外は誰も知らない)童話や物語も国民意識を生み出している。古い物語は現代の日本人の中にも脈々と生きており、だからこそ某携帯電話会社の三太郎のCMが人気を博するのだ。戦国武将の物語や忠臣蔵、幕末維新期の志士たちの物語も、史実とは大きくかけ離れた「物語」として伝承され、それが歌舞伎や映画、演劇、大河ドラマなどによって再生産され、司馬遼太郎などの歴史小説を通じて現代日本人にも“記憶”として定着している。
(後編へつづく)