18歳のクリスティアーノ・ロナウド―ポルトガル追想―(後編)の画像
クリスティアーノ・ロナウド 写真:ロイター/アフロ
あの、熱狂のEURO2016。ポルトガルは、グループステージから苦戦し、負ければ敗退となる最終戦ハンガリー戦で3度リードされたが、大黒柱ロナウドの2ゴール1アシストの活躍で3度追いつき、なんとか進んだ決勝トーナメントのクロアチア戦では、延長後半14分にクアレスマのゴールで辛くも勝利。決勝では延長の末、地元フランスを下して頂点に上り詰めた。この立役者二人がまだ十代の時に、「サッカー批評」は取材していた。まだ二人とも、ポルトガルサッカーも、とてもとても若かった。

(承前)

1990年代に入るとルイス・フィーゴやルイ・コスタの「黄金世代」が現われて、彼らは各国のビッグクラブで活躍するようになっていた。ポルトガルは技巧的な面白いサッカーをする国だった。

■成功をもたらしたビジネスモデル

 僕がポルトガルを訪れたのは、そんなポルトガルのサッカーが変わろうとしていた時期のことだった。

 ハード面でも、ポルトガルのサッカーは変化を始めていた。

 それまで、ポルトガルのサッカー施設は老朽化してしまっていた。ベンフィカのエスタディオ・ダ・ルスやスポルティングのアルヴァラーデ、そしてFCポルトのアンタス。ビッグクラブのスタジアムはたしかに5万人以上を収容する巨大なものだったが、1950年代に建造された巨大スタジアムのボウル状のスタンドにはまったく屋根も付いていなかった。記者席では、雨が降り出すと係員が手動でハンドルを回してガラガラと雨除けのテントを張り出すのだ。実際、ポルト対ラツィオの試合は大雨になったので、僕もびしょ濡れになってしまった。

 すでにドイツでは各地に近代的なサッカー専用スタジアムが建設され始めていたし、フランスも1998年のワールドカップを機に多くのスタジアムが改装されていた。貧弱なスタジアムが多いイタリアと比べても、ポルトガルの施設は見劣りがした。

 選手たちも、コーチたちも、「ヨーロッパへ」遠征するたびに自国の環境の悪さを体感していたはずだ。

 だが、2003年には翌年のEUROのために各地で新スタジアムの建設が進んでいた。

 地方都市に建設されたスタジアムは、各都市のクラブの観客動員数に比べてあまりにも巨大すぎて、EURO開催後に十分に活用できるのかという疑問もあったが、ビッグクラブのスタジアムは、国内リーグだけでなく、UEFA主催の大会で大いに活用されることとなる。しかも、ビッグクラブの新スタジアム建設はクラブ経営の負担にならない形で進められた。

 まず、スタジアムのそばにあった練習場や合宿所を郊外に移転させる。それによって練習場の設備は近代化され、ユース以下の少年たちもトップチームと一緒に練習することが可能となる。

 そして、練習場を移転させた跡地に新スタジアムを建設する。新スタジアムが完成してから旧スタジアムを取り壊すので、新スタジアム完成までホームスタジアムを使い続けることができる。さらに、旧スタジアムを取り壊した跡地にオフィスタワーを建設してクラブの本部として利用すると同時に、民間企業や地方政府の事務所などを入居させることによってクラブの収入源とすることもできる。しかも、EUROのためのスタジアム建設ということになれば、ポルトガル政府やEUからの補助金を使うこともできるのだ。

 この一石三鳥のようなモデルを成功させたのは、FCポルトの会長、ジョルジェ・ヌノ・ピント・ダ・コスタだった。ダ・コスタは優れた経営者で、クラブのプロ部門を税制で優遇されるスポーツ株式会社に再編し、さらに不動産や保険などのいくつかの株式会社も設立して利益を追求させた。そして、ソシオの投票によって運営されるクラブは、これらのグループ企業の最大の株主となることで全体を統括する。

 ダ・コスタ会長はそんなビジネスモデルを確立し、他のビッグクラブもこれに追随。近代化を成し遂げるためには、こうしたビジネス面での成功も不可欠の条件だった。

 こうして、クラブ経営は安定し、近代的なスタジアムが建設され、練習場も充実することになった。これが、この後のポルトガル・サッカーの躍進の基盤となったのだ。そして、ポルトガルのサッカー人たちもハード面では「ヨーロッパ」に対して劣等感を抱かずに済むようになった。

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