大住良之の「この世界のコーナーエリアから」第188回「アメリカ・サッカー小史(上)」(2) エリート層から「移民のスポーツ」へ、サッカーはなぜアメフトに敗れたのかの画像
クリスティアン・プリシッチはクロアチア系。現在の代表チームも、世界各地から来た移民の子孫から成り立っている。撮影/渡辺航滋(Sony αⅡ使用)

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回は、気になるあの国のサッカーについて。

■アメフトとの分かれ道

 南北戦争終結から間もない1866年、ロンドンのFAがつくったルールとともに、「ボールを持って走るフットボール(後のラグビーだが、この時期にはまだ「ラグビー・フットボール・ユニオン」は誕生しておらず、ルールが統一されていたわけではない)のルールを記した本がニューヨークで発行されている。しかし当時、アメリカでは「ドリブルするフットボール(サッカー)」が圧倒的に多く、「ボールを持って走るフットボール」はほとんどプレーされていなかった。

 当時、アメリカの「大学サッカー」は、1チーム20人、ピッチは現在のサッカーより大きめのものが使われていた。ゴールポストの間隔も25フィート(約7.62メートル)で、現在のもの(8ヤード=24フィート=7.32メートル)よりひとまわり広かった。1866年までのサッカーには「ゴールバー」がなく、この年に8フィート(2.44メートル)の高さにひもを渡してその上をボールが通過した場合には得点と認めないことにした。「ゴールバー」の登場は翌年のことである。

 1873年にイングランドから「イートン・プレーヤーズ」という名のサッカーチームがアメリカを訪問、イェール大学と親善試合を行った。このチームは「オールド・イートニアンズ」として初期のイングランドFAカップで活躍した強豪だった。試合は1チーム11人というイングランドの慣習に従って行われ、迎え撃ったイェール大学は2-1の勝利をつかんだ。以後「11人制」がアメリカの大学サッカーのスタンダードとなる。

 一方、ボストンのハーバード大学は少数派の「ボールを持って走るフットボール」に執着していた。そして1875年、「サッカー派」のプリンストン大学との間で、互いに歩み寄ったルールを使って対戦した。この試合のハーバード大学のプレーは素晴らしく、4-0で完勝。見ていた人々も「ボールを持って走るフットボール」を喜び、以後、ラグビー・スタイルのフットボールが急激に力を得るようになる。

 そしてイェール大学のウォルター・キャンプがラグビーのルールを手直しして「アメリカン・フットボール」を開発すると、以後、アメリカの大学でフットボールといえば、この11人制の新競技一色になり、「サッカー」をプレーする大学は激減していく。

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