■祖父が使った「スッカラク」

 留学生が多かったのは、柏木の一角に「国際学友会」という組織があったからです。設立は第2次世界大戦前の1935年。日本が進出を目指していた東南アジアやヨーロッパの友好国などの留学生を受け入れる組織でした。戦後の1958年には日本語学校が設立され、現在は「独立行政法人東京日本語教育センター」となっています。

 だから、僕の家の近所には留学生がたくさん住んでおり、韓国料理店はもちろん、ベトナム料理店なんかもありました。今では、日本でもベトナム料理はポピュラーなものになっていますが、半世紀前にはとても珍しいものでした。

 ただ、僕の両親は大正生まれだったので、東南アジアや韓国・朝鮮に対してネガティブな感情を抱いており、近くに存在するのに、子どもの頃は韓国料理屋やベトナム料理屋に入ったことはありませんでした。

 一方、僕の祖父は韓国・朝鮮好きでした。若い頃に憲兵として朝鮮南部の全羅北道茂朱(ムジュ)郡というところに駐在したそうです。たぶん、1920年代のことでしょう。

 もちろん、憲兵ですから、現地の人たちから見たら外国人の尊大な支配者だったのでしょうが、祖父は現地の「両班(ヤンバン)」と呼ばれる知識人たちと漢文を通じて交流していたらしく、朝鮮に親近感を抱いていたようで、死ぬまで朝鮮式のスプーンである「スッカラク」を使っていましたし、家の居間には朝鮮人からもらったという額が飾ってありました。

 そんな幼児期の体験が、1983年に初めて韓国に行ったときによみがえったのかもしれません。僕は韓国の食べ物や韓国人一般に、かなり親しみを感じたわけです。

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