■実際は「過去に3人」

 さて、アンチェロッティはさまざまなニュースで「ブラジル代表初めての外国人監督」と伝えられているが、それは正確ではない。実際には過去に3人の「外国人監督」がおり、アンチェロッティは4人目ということになる。

 ブラジルのサッカーを統括する組織(現在のCBF)は1914年に誕生し、正式な「ブラジル代表」の歴史も、この年の7月21日にリオデジャネイロで行われたエクセター・シティ(イングランドのクラブチーム)との対戦で始まる。

 それから11年後、1925年の12月にブエノスアイレス(アルゼンチン)で行われた南米選手権の4試合で指揮を執ったのが、初の「外国人監督」、ウルグアイ人のラモン・プラテロだった。彼は1919年からブラジルで監督をしており、フルミネンセ、フラメンゴ、バスコダガマで指揮を執って実績を挙げていた。4試合の結果は、アルゼンチンに0-2、パラグアイに5-2、アルゼンチンに1-4、そしてパラグアイに3-1と、2勝2敗だった。南米のサッカーがまだアマチュアの時代である。

 2人目は、ジョルジ・ゴメス・デリマ。ブラジルでは「ジョレカ」の愛称で親しまれたポルトガル人、初の「欧州人監督」である。といっても単独で指揮を執ったわけではなかった。1944年5月にリオデジャネイロとサンパウロで行われたウルグアイとの親善試合2試合でブラジル人のフラビオ・コスタとの「共同監督」という立場だった。

 ジョレカはサッカーの監督になる前には、体育教師の資格を持って記者、ラジオ・コメンテーター、レフェリーなどの仕事をしていた変わり種だったが、サンパウロFCの監督として成功を収め、3日間だけながらブラジル代表監督の職にあった。リオで行われた第1戦(リオの選手が中心だった)をフラビオ・コスタが指揮し、「ジョレカ」はサンパウロでの第2戦の責任を持った。この後も長く続くブラジル・サッカーの国内問題の象徴のような監督人事だったことがわかる。

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