■究極の「国籍変更」スター選手
だが、「究極の国籍変更選手」といえば、ラズロ(ラディスラオ)・クバラだろう。1940年代から1960年代にかけて、彼は、チェコスロバキア、ハンガリー、そしてスペインと、3か国の代表チームでプレーした。
生まれはハンガリーの首都ブダペスト。工場労働者だった母は、そのルーツをポーランド、スロバキア、ハンガリーに持っていた。レンガ職人だった父は、ハンガリーで暮らす少数民族のひとつであるスロバキア人だった。1927年6月10日に生まれ、後に6か国のリーグ、3つの代表チームでプレーし、5か国で監督を務めたクバラは、自分自身を「コスモポリタン(世界市民)」と表現していた。
彼はブダペストにある3部リーグの小さなクラブのユースチームでキャリアをスタートさせたが、彼の特別な才能は幼いころから明らかで、11歳のときにはアンダー16のチームに入ってプレーしていたという。そして18歳のときにハンガリーきっての名門であるフェレンツバロシュと契約する。しかし、翌1946年、19歳になったとき、チェコスロバキアのスロバン・ブラチスラバに移籍する。ハンガリーの兵役を逃れるためだった。