
蹴球放浪家・後藤健生には、初めて現地観戦したワールドカップで「忘れられない」思い出がある。今回のテーマは、ワールドカップと独裁者の「不思議な関係」について。
■反則もいとわないサッカーが「横行」
アルゼンチンのサッカーは1940年代に黄金時代を迎えていたのですが、当時は戦争のためにワールドカップは開催されず、力を世界に示すことが出来ませんでした。そして、戦後は、アルゼンチン・サッカーは低迷してしまいます。テクニック重視のサッカーが疑問視され、反則もいとわないサッカーも横行。また、経済が低迷する中で多くの選手がヨーロッパに渡ってしまい、代表は弱体化してしまいます。
地元でのワールドカップで優勝することによって政権への支持を高めたい軍事政権は、代表強化のために選手の海外移籍を禁止します。当時、代表監督だったセサール・ルイス・メノッティは、思想的に左派であることを公言しており、亡命も考えたといいますが、結局、軍事政権の思惑に乗って国内組を中心にテクニックを生かした攻撃サッカーを武器とするチームを作ります。
そして、1978年の地元開催のワールドカップで初優勝を成し遂げます。キャプテンのダニエル・パサレラにワールドカップを授与したのは独裁者ビデラ将軍でした。