後藤健生の「蹴球放浪記」第245回「ワールドカップと独裁者の死」の巻(1)ドイツ大会で掲げられた「半旗」、クライフの「不参加」とアルゼンチンの「軍事政権」の画像
1974年大会のチケット。アルゼンチンの初戦はポーランド戦(2対3で敗戦)だった。 提供/後藤健生

 蹴球放浪家・後藤健生には、初めて現地観戦したワールドカップで「忘れられない」思い出がある。今回のテーマは、ワールドカップと独裁者の「不思議な関係」について。

■ドイツW杯で掲げられた「半旗」

 1974年7月、西ドイツ(当時)では、第10回ワールドカップが開催されていました。僕にとっては、初めて現地まで観戦に行った思い出の大会だったのですが、2次リーグの途中でスタジアムのポールに半旗が掲げられたのを目にしました。

「半旗」というのは英語で「ハーフマスト」。災害があったり、要人が死去したりしたときに、弔意を表すために国旗などを旗竿の先端より下の位置に掲げることです。

 半旗が掲げられたのは、アルゼンチン共和国の大統領フアン・ドミンゴ・ペロンが亡くなったからでした。

 ペロンはアルゼンチンの左派ポピュリスト政治家でした。国内の労働者を組織して、1946年に大統領となりました。第2次世界大戦前のアルゼンチンは牛肉、小麦などの輸出で栄える豊かな国で、首都のブエノスアイレスには大きなビルが建ち並び、「南米のパリ」とも呼ばれていました。

 大統領に就任したペロンは大胆な工業化政策を行ったのですが、これが失敗。アルゼンチンの富は失われていきます。そして、ペロンも権力の座から追われます。

 しかし、その後も大衆の間でのペロン人気は高く、ペロン支持者(ペロニスタ)は現在でも強い影響力を持ち続けています。また、彼の最初の妻のエバは「エビータ」の愛称で国民的人気を誇りました。ミュージカルや映画にもなったので、ご存じの方も多いでしょう。

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