■今も残るW杯での大記録「1大会13ゴール」

 初戦のパラグアイ戦(7-2の勝利)でいきなりハットトリックの3得点を記録すると、ユーゴスラビア戦(2-3の敗戦)では2得点、スコットランド戦(2-0の勝利)でも1得点。準々決勝の北アイルランド戦(4-0の勝利)で再び2得点、準決勝のブラジル戦(2-5で敗戦)で1得点、そして3位決定の西ドイツ戦(6-3の勝利)では4ゴールの荒稼ぎをし、1大会13ゴールという今も残る大記録を打ち立ててしまったのだ。

 瞬間的な加速力と正確なシュートが、フォンテーヌの持ち味だった。

 この1958年ワールドカップこそ、フランスのサッカーにとって、日本で言えば「メキシコ五輪銅メダル」に匹敵する歴史的な快挙だった。この大会のフランス代表22人のメンバーのうち、6人が「スタッド・ドゥ・ランス」所属選手だった。レアル・マドリードの中心選手になっていたコパはキャプテンであり、監督はバトーだった。バトーは、1955年から1962年まで「スタッド・ドゥ・ランス」とフランス代表の監督を兼務していたのだ。

 そして1959年、スタッド・ドゥ・ランスは再び欧州チャンピオンズカップ決勝戦の舞台に戻った。ジュスト・フォンテーヌは準決勝までに10得点を記録。だが決勝戦の相手、レル・マドリードは、ディステファノだけでなく、コパが攻撃をリードしていた。フォンテーヌは得点を記録することができず、0-2で敗れた。

 その後、フォンテーヌは相次ぐケガに見舞われ、1962年、28歳の若さで引退を余儀なくされる。そしてこの年の優勝が、スタッド・ドゥ・ランスにとってリーグアンでの最後のタイトルとなった。フォンテーヌのフランス代表歴はわずか21試合で終わった。その間に決めた得点数は30点(1試合平均1.43点)と破格だったが…。

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