サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回のテーマは、伊東純也と中村敬斗、2人のサッカー日本代表選手が背負う「フランス人の誇り」。
■名監督から信頼された「風変わりな選手」
コパは「ポーランド系」だが、フランス代表45試合で18ゴールを記録、11年間にわたってフランス代表としてプレー、1954年と1958年のワールドカップに出場し、1958年大会ではキャプテンも務めたフランス・サッカーの「シンボル」とも言うべき選手だった。だが、ジュスト・フォンテーヌはいささか風変わりな選手だった。
彼はフランスの植民地だったモロッコのマラケシュでフランス人の父とスペイン人の母の元に生まれ、20歳でフランスのOGCニースに移籍、その年にフランス代表に選ばれたことはあったが、以後は代表にも呼ばれず、2年半軍隊生活をした後、1956年にスタッド・ドゥ・ランスに移り、ようやくフランス代表に2回目の招集を受けたという選手だった。
名監督バトーの信頼を受け、1957/58シーズンのリーグアンでフォンテーヌは38ゴールを挙げて優勝の立役者となり、フランス・カップでも決勝戦でニームを3-1で下す決勝ゴールも決めた。そして1958年ワールドカップのフランス代表チームにも選出された。ただし、当時のフランスには不動のセンターフォワードがいた。ラシン・クラブのタデ・シソフスキは、1956年に行われたワールドカップ予選のベルギー戦で5得点を挙げた選手だった。フォンテーヌはその控えのはずだった。
ところが、大会前にシソフスキが負傷。フォンテーヌは親善試合で先発の地位をつかむと、大会では毎試合得点という大活躍を見せる。