■奇跡の瞬間
難民は周辺の国へも流入していきます。
レバノンにも多くのパレスチナ難民が押し寄せ、その中から抵抗組織「パレスチナ解放機構(PLO)」も生まれました。イスラエルはレバノン領内のPLOを攻撃したり、レバノン領土の一部を占領したりしました。そして、周辺国もレバノンに派兵しました。
1943年の独立以来、レバノンという国はキリスト教徒、イスラム教スンニ派、同シーア派のバランスの上に成り立っていましたが、バランスは崩壊。各勢力や周辺国が入り乱れたレバノン内戦が始まります。内戦は1970年代から1995年まで続きましたが、その後、辛うじてバランスが保たれていたのが20世紀末の数年間。アジアカップが開催されたのは、そんな“奇跡の瞬間”だったわけです。
当時も南レバノンはイスラエル軍の占領下にありましたし、イスラエルと対立するシーア派組織「ヒズボラ」の勢力も拡大しており、フィリップ・トルシエ監督率いる日本代表がトレーニングに使っていたグラウンドは首都ベイルートのヒズボラ支配地区の中にあり、練習場周辺には黄色のヒズボラの旗が林立していました。
よく、そんな状況でアジアカップが無事に開催できたものです。