■出場停止を超える意味

 大声でチームを叱咤激励する柱谷とは異なり、井原は闘志を胸に秘め、常に冷静にチーム全体を掌握した。井原は周囲の話をきちんと聞く人格者であり、その人格の周囲に多彩な個性をもつ選手たちで日本代表チームが構成された。その井原が、戦う気持ちを丸出しにしたシーンは、衝撃的であり、それだけに効果的だった。

 それは1997年10月11日、場所は、奇しくも14年後に長谷部がピッチ上で檄を飛ばすことになるタシケントのパフタコール・スタジアムである。1週間前のカザフスタン戦で引き分け、ワールドカップ・アジア最終予選のB組の前半戦4試合を終わって日本は勝点5、5チーム中3位だった。4連勝で勝ち点12の韓国の後ろ姿ははるか遠くに見えなくなり、2位UAEにも勝点2差をつけられていた。

 カザフスタン戦後に加茂監督が更迭され、岡田コーチが就任して舞台をアルマトイ(カザフスタン)からタシケントに移してのウズベキスタン戦は、日本にとって「生か死か」の試合だった。その試合の開始直後、井原は猛烈なタックルで相手を倒し、バーレーンのスルタン・ムジャリ・アルアラク主審にイエローカードを突きつけられるのである。この予選2枚目。続くUAE戦での出場停止を意味していた。

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