大住良之の「この世界のコーナーエリアから」第118回「アジアカップは熱い(暑い?)」(3)アジアでの孤立を防いだ日本協会副会長の気配りの画像
1975年、アツいアジアカップ予選があった(写真はイメージです) 撮影:中地拓也

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回のテーマは半世紀前のアジアカップの「アツさ」について。

■5分ほどのドライブ

 ある日、団長の藤田静夫さんが「買い物に行くのでいっしょに行かないか」と私たちを誘ってくれた。藤田さんは1911年生まれだから、当時は64歳だったはずだ。いまの私よりずっと「年下」だが、当時はとてつもないおじいさんに見えた。

 声をかけられて今井さんと気軽についていくと、車でわずか5分ほどのクツ店に行き(藤田さんの行き着けの店のようだった)、高級そうなクツを2足注文して、「あんたらも買ったらどうか」と言ってくれた。私には、この店にはいったときからひと目で惹かれたクツがあった。見るからに柔らかそうな皮革のクツで、少々高かったが、思い切って買った。その後、藤田さんはお茶に誘ってくれ、ゆっくりと話した後、またわずか5分ほどのドライブでホテルに戻った。

 「藤田さんはね、車を使うために買物に行ったんだよ」と、帰ってから今井さんが話してくれた。

 「出場チームの団長には、香港協会が1台ずつ車をつけ、自由に使ってくれという話になっているんだ。でもきょう、藤田さんは誰との約束もなく、車は必要ない。でもきょうはいらないよと言ってしまうと、ドライバーは収入がなくなってしまう。そこでわざわざホテルの近所のクツ屋に行く用をつくったんだ。あんな近くへの用でも、使えばドライバーには1日分の収入になるからね」

 JFAが貧しく、外国との交流がほとんどなかった時代、藤田さんは自腹をはたいてでもAFCの行事に出席し、各国の協会トップと交友を結んでいた。サッカーの世界では、各国の協会トップはその国の名士が務めていることが多い。彼らは人と人のつながりを重視し、しばしば利害を超えた個人的な「友情」をもとに意思決定を行う。

 当時、強化のために欧州や南米ばかりに目を向けていたJFAがアジアのなかで孤立しなかったのは、藤田さんの働きと、ドライバーまで大切にする細かな気配りのおかげではなかったか。こうしたことも、「若造」のサッカージャーナリストにとって、大切な「学び」だった。

  1. 1
  2. 2
  3. 3